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僕はイエス様が嫌い【映画・ネタバレ感想】神様、なんて、★★★★(4.0)

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【あらすじ】

祖父が亡くなり一人になった祖母と暮らすため、東京から雪深い地方の父の実家に引っ越してきた小学5年生のユラ。転入した小学校はミッション系の学校で、日常的にある礼拝やお祈りといったこれまでの学校ではなかった慣習に戸惑いを隠せない。

なかなか学校に馴染めずにいたある日、ユラの前に「小さなイエス様」が現れる。「友だちができますように」……そうお祈りをすると、本当に友だちが出来る。その後も度々「小さなイエス様」が現れ、ユラの願いを叶えてくれるようになるが……。

 

 

今年期待の一作として挙げていた1本。先日上げた、上半期のベストにも入れました。

 

 

公開館が少なく、すでに上映が終了しているところもあるみたいなんですが、なんとか間に合って鑑賞できました。

結論から言うと、、、

「なんて優しい映画なんだ……( ;∀;)」

なんていうのかな、心の中の柔らかいところにそっと触れられたような、温かい気持ちになりました。

 

「神さまってなに?」「お祈りに意味はあるの?」という大人でも答えられない疑問を、子どもの素朴な目線で描いています。言うなればテーマは「神の沈黙」です。

そんなふうに書くと「宗教くさい映画?」と誤解されそうなんですが、そんなことは全くなくて、むしろ子どもの頃に誰しもが経験したであろう喜怒哀楽を、「神さま」という記号を用いて描いているように思えました。

とても普遍的で、特定の宗教を信仰していないわたしでも共感できる部分の多い映画でした。

 

 

子どもたちの自然な演技(?)が良い!

まずやはり言っておきたいのは、子役の演技、というかもはや生活とでも言いますか。飾らない子どもたちの姿がとても愛らしかったですね。

ちょっと特殊なオーディションによって選ばれた素人の子たちらしいんだけど、(快挙!史上最年少22歳でサンセバスチャン受賞の奥山大史監督『僕はイエス様が嫌い』|「宗教は死後の世界をのぞき見したいという欲求からできたもの」監督語る - 骰子の眼 - webDICE参照)「演技させられてる」感がまったくなかったのが素晴らしかったです。

演技指導に関しても、上記のインタビューによると、

子役中心の物語を撮るにあたり、セリフはあえて最小限しか書かず、子役たちに任せました。ユラとユラの友だちが会話をしながらサッカーをするシーンがありますが、実はあのシーンの脚本にはセリフを全く書いておらず、ただ「サッカーをする」とだけでした。

このやり方が子どもたちの自然な姿を撮しとることに成功してるんじゃないでしょうか。

 

子ども同士の会話というか空気というか、はじめてユラと友だちの和馬くんがサッカーで遊んでる時の微妙な距離感とか、別荘で遊ぶシーンとか、徐々に仲良くなっていく様子もすごく自然でしたよね。

この主役の二人だけじゃなくて、モブの子たちもすごく良くて、

「なにやってんの?」「ねりけしつくってんの!」

とかね、小学生たちの他愛もない感じが出ててとても微笑ましかったです。

 

それから、物静かで淡々とした語り口も心地よかったですね。

基本的にワンシーンワンカットに近いというか、カメラを固定して俯瞰の構図で撮ってるところがあって、ある種定点観測的な見方が出来るんですよね。

例えば転入初日の夕飯のシーンだと、ユラくんはとてもつまらなそうに家族とやり取りをしてて、友だちができた後も同じ構図なんだけど、食事の仕方ですごく楽しそうに話しているのがわかる。

あと後半のサッカーのシーンで、和馬くんが何度もシュートを決めるなか、ユラは何度もボールを取られてて、だんだんやる気がなくなっていく姿をずっと上から撮っている。

そういう心情の変化を、役者の表情にフォーカスすることなく画面全体で観せてくる映画だなと感じました。

だからこそ、手持ちカメラで寄って撮った、二人が別荘で雪の中を走り回るシーンはより躍動感が出るし、終盤、全力で走るユラの顔をカメラがとらえたとき、その感情がより一層伝わってくる。

 

 

実はわたしも子どもの頃に身近な人を亡くして、その「死」を目の当たりにして以来ずっと、ずっと、ずぅっっと「神さまなんて」という気持ちでいたんですよ。

でも、この映画を観て、あの時感じた気持ちにどこか折り合いが付けられたような気がします。

 

うまく言えないけど、本当に観てよかったなと思える映画でした。

 

 

 

以下ネタバレ&どうでもいい自分語りがはじまってるんで、そういうのが嫌な人は読まなくていいです。

 

 

 

 

 

はじめて直面する「神の沈黙」

「小さなイエス様」にお願いしたことで、和馬くんと友だちになれたユラ。そのあとも「お金をください」とお願いすると、おばあちゃんから亡くなったおじいちゃんのヘソクリだという1000円をもらえたり、「流れ星が見たい」というと星が見えたり(最後のこのシーンの種明かしは泣けた……)、些細な願いを叶えてくれる「小さなイエス様」。

それと同時に和馬くんとも親睦を深め、家でゲームをしたり、冬休みに一緒に別荘でクリスマスパーティーをしたりして過ごし、ユラの毎日は充実していく。

けれど楽しい学校生活もつかの間、和馬くんが交通事故にあう。そして「和馬に会わせて」という願いを叶えてくれたのを最後に、「小さなイエス様」もユラの前から姿を消す。そして、クラスメイトの「お祈り」もむなしく、和馬くんは帰らぬ人となってしまう。

 

この一連の展開は、「信仰心のめざめ」と、はじめて直面する「神の沈黙」について描かれています。

ユラは元々クリスチャンではなかったし、当初は礼拝やお祈りに対して引いてみていたところがありました。けれど、「小さなイエス様」が現れ、学校の慣習に従っていくうちに自然と「神なるもの」を受け入れるようになっていく。

ところが、一番重要な局面(身近な人の死)で、その「神なるもの」は意味をなさなくなる。それは、教師に対してユラが言う「お祈り、意味なかったです」という言葉にも現れています。

これまで漠然と信じていた(と思っていた)ものからの裏切り……。きっとそのように感じたのではないでしょうか。

 

もちろん、クリスチャンの方々からしてみたら「神とはそういうものではない」と反論されるかもしれません。まぁ、きっと、本当のところはそうなんだと思う。

でも、子どもの時はまだ俯瞰で考えられないし、どうしても短絡的に繋げたがるから、そうやって考えちゃうところあるんじゃないかなって気がするんだよね。

 

 

神さまが消えた日

というわけでわたしの話。

わたしには二つ上の兄がいるんだけど、小さいときからけんかばかり、というか、だいたいいじめられてて(苦笑)、それもあって「わたしに妹がいたら絶対に優しくするのに!」とずっと思ってたのね。だから、わたしも妹が欲しい!!って思って、クリスマスにサンタさんへの手紙に「おにちゃんをあげるので、いもおとをください」とか書いてたんだけど、残念ながらその願いが叶うことはありませんでした。

 

でも(でも?)、ある時、家族ぐるみで仲良くしていたご近所さんのおうちに赤ちゃんが生まれたのね。

お目めぱっちり、髪は栗色でフワッとカールしてて、ほんのりほっぺが赤くてさ。いい匂いがして柔らかくてもうほんと、べっらぼうにかわいい子だったの。比喩でもなんでもなく、まさに天使よ。

指を手のひらにのせたらぎゅうって握ってくれてさ、もう愛しさMAX!!今で言う「尊い……(語彙力)」という気持ち。

そしてその時、わたしは気づいたわけ。「あぁ、この天使ちゃん、ほんとはわたしの妹だったんだけど、きっとサンタさん間違えちゃったんだなぁ」て。今思うとばかみたいだけど、その時は本気でそう思ってた。願いが叶ったんだって。

 

だから(だから?)、ほぼ毎日のように、その子に会いにいって、抱っこして寝かしつけの真似事したりオムツ替えのお手伝いしたりおばちゃんと一緒にお散歩に付いていったりして、もう気分はお姉ちゃんよ(笑)。顔を見てるだけも嬉しくて、毎日会えるのが楽しみだった。

おばちゃんから「この子が小学生になる時はミントちゃんは6年生になるね~いっぱい面倒見てあげてね~」なんて言われて、それが妙に誇らしくて、赤ちゃん早く大きくならないかなぁ~って、思ってた。

 

思ってたんだけど、その子は、大きくなれなかった。一歳になる前に、亡くなってしまったんだよね。今でいう、乳幼児突然死症候群ってことなんだろうと思うんだけど、本当に突然すぎて、結局はっきりした死因はわからなかった。

 

あの時、わたしは初めて「死」が何たるかを知ったんじゃないかと思う。それはあまりに理不尽で暴力的で、そんなことが起こり得るなんて、まったく予想もつかないこと。

あんなに小さくてかわいくてみんなから愛されてる子に、そんなことが起きるなんて、信じられなかった。

 

今でも覚えているのは、葬儀がおこなわれた会場があまり広くなくて、大人だけしか中には入れないからわたしは外で待ってたんだけど、しばらくして棺と呼ぶにはあまりに小さすぎる木箱が中から運ばれてきたこと。

わたしは泣かなかった。

おばちゃんが木箱にすがって泣いているのを見ても、わたしは泣かなかった。 

多分わたしは怒っていたんだと思う。 

あんな天使みたいな子をつれていくなんて、神さまはどうかしている。絶対にこんなのはおかしい、って。

いや、そもそも、神さまなんて、いやしなかったんだ、って。

 

もうその年からわたしはサンタさんに手紙を書かなくなった。

 

 

優しさに包まれたなら

映画を観ながら、あの時感じた悔しさ、悲しさ、やり場のない怒りを思い出しました。

あの時のわたしと同じように、ユラは怒りや悲しみをぶつける場所がわからないから、泣きわめいたり激昂したりしない。

 

でもユラが、1000円を持って和馬くんのラッキーカラーである青色の花を買いに行くところで、もう堪えられなくて、わたしはおいおい泣いてしまいました。

おそらくだけど、和馬くんが事故にあう直前、神社のお参りでユラも和馬くんと同じように「サッカーで点が取りたい」とお願いしたんじゃないかと思うのね。でも、それが叶わなくて、和馬くんばっかりチヤホヤされて面白くなくて、思わず帰っちゃったんじゃないかな。

もし、あの時一人で帰らずに和馬くんと一緒にいたら、彼は事故に遭わずに済んだんじゃないか……。きっとそんな風に負い目も感じていたのかもしれない。

でも、死んでしまった友だちのためにできることをしようとするユラは、とても強いとわたしは思った。

 

そしてサッカーで遊ぶ和馬くんとユラをイエス様の視点で見下ろしているラストシーンで、ふと思ったのです。

もしかしたら、イエス様はユラのためではなく、和馬くんのために現れたのでは?と。

1000円も、サッカーも、別荘も、流星群も、全部、和馬くんの死を予見してたイエス様が用意したんじゃないか?って。

こういう逆算的な発想はあまり好きではないし、そうだったとしたらもはやそれって神様なのか?って感じだけど。

でも、そう考えたら、少し救われる気がした。

 

映画を観たくらいでわたしが子どもの時に感じた気持ちは変わらないし、神さまを信じようなんて単純には考えられないけど、でも、あの時わたしを包んでくれた優しい存在が、確かにあったことだけは、思い出せた気がする。

指を握り返してくれたあの子の手は、本当に、本当に温かかったから。

 

だから今日は、今日だけは、あの子のために、祈ろうと思った。

あの子に、会えることができた奇跡に。

あの子が、生きてくれていた証に。

 

大きくなったあなたに、いつか、会えたらいいな。