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関心領域【映画・感想】無力と傲慢のあいだ★★★☆(3.9)

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あらすじ

天気の良い日は近くの川へピクニックへ行き、父親の誕生日には大きなケーキでお祝い、母親はご近所さんと世間話をしながら楽しくお茶会、子どもたちは元気に学校へ。管理の行き届いたお庭には、色とりどりの花が咲く。そんなごくごく普通の幸せな一家の穏やかな生活。

ただ一点、壁を一枚隔てた向こうがユダヤ人収容所であるということを除けば。

 

 

『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』のジョナサン・クレイザー監督の最新作。

 

アンダー・ザ・スキン 種の捕食 [Blu-ray]

 

アンダーザスキン、正直謎な映画でよくわからんところもあるけど、わたしは何気に結構好きな映画だったりします。

 

さて本作。パンフや監督のインタビュー読むと、ものすごくこだわりのある人みたいで、リアルさが大事だからという理由でほんとうにアウシュヴィッツ収容所の隣で撮影したとか、実在する人(リンゴ運ぶ女の子)のエピソードだけでなく衣装までその本人のものを使ったりしたとか、いろいろ舞台裏も面白いです。

 

 

わたしは平日に家の近く(都内だけど都心じゃない)のシネコンで観たんだけど、たいていこういう映画(邦画でもハリウッド大作でもない映画)って普段ならガラガラなのに、今回はかなり満席に近くて、驚きました。みんなめっちゃ関心あるじゃん、みたいな。

 

というわけでまぁ、ここから下は映画の感想になっていくんだけど。例によって例のごとくうざい自分語りも込みなので、ちゃんとしたレビューや考察みたいなのが読みたい人は他の方のブログさんへ行ってくださいまし。

 

 

 

以下ネタバレあり。

 

 

 

無関心ではいられない

本作のメインキャラクターとなるのはヘス一家。収容所所長の夫、その妻、そして子どもたち。収容所のすぐ隣の敷地にあるそこそこ立派な家に住んでいる。

時々荷車を押して収容者とおぼしき人が荷物を運んできたり、ポーランド人の女性を使用人としていたりと、彼らが支配階級の人物であることがしっかりと示される。

 

夫の誕生日、部下が訪れお祝いの挨拶する。なかなかの人数で、彼が上級高官であることがうかがえる。出勤後は看守たちの「働きぶり」を見守り、設計士から収容所の改修についてーいかに"荷"を効率よく焼却するかについてー詳しい説明を受ける。

妻はユダヤ人たちから強奪した衣服や装飾品を身に纏い、同じ階級の妻たちとそれを話のネタにしてお茶を楽しむ。

 

彼らは「立派に」、ホロコーストに荷担している。

荷担、なんて言い方では生ぬるいかもしれない。

むしろホロコーストが生活の基盤になっているといえる。なぜなら収容所が無くなれば、彼らの生活はとたんに立ち行かなくなるだろうから。

 

映画では家族は壁の向こうを一切無視し「関心がない」かのように描かれる。だが実際は逆だ。壁の向こうが一家の生活の中心であり、常にそこに意識を向けている。

でも自分は支配する側なので、この生活が脅かされるなどとはつゆほどにも思っていない。だから妻は夫の転勤についていかないし、ここでの生活を守ろうとする。

この映画は、そういう一家の話なのだ。

 

ただ、わたしが強く疑問に思ったのは、なぜそこまでして、彼らがこの生活にこだわるのかということだった。

 

途中、妻の母親がやってきてしばらく滞在するんだけど、ある日何も言わずに家を出ていく。おそらく、毎日隣の収容所から聞こえてくる音や煙突からの煙(もちろんそれは、ユダヤ人たちを焼く火の煙だ)、その惨状に耐えられなくなったからだろうとわたしは思った。

母親が残した置き手紙になんとあったのかは映されないけれど、それを読んだ妻の憤りから察するに、きっと「こんなところによく住めるわね」みたいなことが書かれてあったんじゃないかと思う。

 

妻はそのあと、母親の食事を用意していた使用人にこう言う。「あんたなんて夫が燃やして灰にすることだってできるんだから」

そう、彼女は壁の向こうで何が行われているかを知っているし、ちゃんと理解している。その上で「女王」でいることを選んだのだ。

 

 

無関係ではいられない

映画は、左遷させられた夫が再び家族のもとに帰ることができる、と判明したところで終わる。妻に電話で「毒ガス」について言及し、天井が高いから云々と話す。

華やかなパーティー会場も天井が高く、その下ではナチス高官とその家族とおぼしき人たちが談笑したりダンスしたりしている。ユダヤ人を殺す決断をした彼らは、そう遠くない未来、死ぬか糾弾される運命にある。

 

当然そんな歴史を知るよしもない夫は、意気揚々と会場を後にする。だが、階段を下りながら夫は何度か嘔吐しかける。

すると場面は突如現代に切り替わり、アウシュヴィッツ博物館で開館準備のために清掃するスタッフの姿が映し出される。おびただしい数の靴や衣類、遺物の数々から、夫が何をしたのか、この後何をしようとしているのかが示される。

 

それはヘス氏への未来からの警告のようにも見える。

えづき終えた夫は、暗い階段を降りていく。まるで地獄に突き進むかのように。止まるでも引き返すでもなく。彼もまた、進むことを選んだのだ。わたしには、そう見えた。

 

調べていないので、彼ら一家がどうなったのか、わたしは知らない。でもだいたいの想像はつく。それは、ただの結果だ。

 

 

リンゴを作り続ける

映画を現実に引き寄せて考えることは簡単だ。

戦争は今も起きていて、虐殺も現在進行形の話だ。

 

映画を観ながら、わたしはただ、あの家には絶対に住めないと思った。妻の母親と同じように、逃げ出すかもしれない。でもそれって見て見ぬふりしていることと大差ないのでは、とも思う。

でも、殺された/る人の所持品だとわかっている毛皮のコートに、何の気なしに袖を通すなんて、わたしにはできない。絶対にできない。誰かのものだったドレスを広げてどれにするか選んだり、ダイヤがどこにあったのかなんて話を笑ってするだなんて(あれはまごうことなき「戦利品」だ。ただの買い物で手に入れたものではなく、ああやって何者かから略奪したものをそう呼ぶのだ)、なんでそんなことができるのか、わたしにはわからない。それはわたしが現在に生きていて、歴史を知っているからかもしれない。

そうかもしれないけど、でもわたしにはあそこでの暮らしが幸せそうにはどうしても思えなかった。

子どもが隣から聞こえてくる看守の真似をして暴言を口にしてるなんて、耐えられない。

 

じゃあ、レジスタンスの少女のようにリンゴを置きに行けるか?と言えば、多分それもできそうにない。わたしにはそんな勇気はない。

それに、あのリンゴをもとに収容者同士が争いを起こしてしまっていた(おそらくその収容者は殺されてしまったのではないかと思う)。

彼女はそのことを知っていたのだろうか。それでもリンゴを置き続けたのだろうか。

 

戦争は終わらない。人は死に続ける。

何をやっても、無駄なのかもしれない。

 

彼女はそんなことを、一瞬でも考えたりしなかったのだろうか。いやきっと、考えたはずだ。それでも諦めずにリンゴを置き続けたのだろう。それはとても、力強いことだとわたしは思う。

 

わたしは、あそこにも住めないし、とてもじゃないけどリンゴを置きにも行けない。でも、彼女が置きに行くリンゴを、作ることはできるんじゃないか、と思う。誰かに届くことを願って、リンゴを作ることくらいなら……って、これは卑怯なことだろうか。

そうかもしれない。わからない。

 

時々、ほんとうに自分は無力だと思う。子どもが殺されるニュースを見るたび、たくさんの人が住む場所を奪われていく姿を見るたび、わたしには何もできないと思う。

 

でも一方で、そんなことはないとも強く思う。だから少しでも行動してみようとして、寄付したり署名したり不買活動してみたり支援の意思を表明したりする。

この世界には無関心でいられることも、無関係なことも、おそらく何一つないと思うから。

家族と自分の幸せはそこに繋がっているとも思うから。

こんな考えは傲慢だろうか。

 

それでも、わたしは自分の無力さと傲慢さを引き受けながら、リンゴを作り続けたいと思う。それを選べる立場にわたしはいるから。

 

そもそも「領域」を隔てるものなんて、ほんとうはどこにもない。そのことを、映画の未来を生きるわたしたちは知っている。

 

 

 

作品情報
  • 監督・脚本 ジョナサン・グレイザー
  • 原作 マーティン・エイミス
  • 原題 The Zone of Interest
  • 上映時間 105分
  • 製作年 2023年
  • 製作国 アメリカ合衆国、英国、ポーランド
  • 出演 クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー