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シークレット・ヴォイス【映画・ネタバレ感想】歌に秘められた母娘の呪い★★★☆(3.8)

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あらすじ

10年前に引退した人気歌手リラ・カッセンは自宅近くの海で溺れ、その拍子に記憶喪失になってしまう。間もなく復帰ツアーが始まるというのに、歌も振りも思い出せないリラは、動画サイトで自分そっくりのモノマネをする女を見つける。

それは荒れた娘を持つ貧しいシングルマザー、ヴィオレタだった。リラのマネージャー、ブランカから、「記憶を失ったリタにリタの歌を教えて欲しい」という奇妙な依頼を受けたヴィオレタだったが…

 

 

『マジカル・ガール』のカルロス・ベルムトの最新作!

「2019年の期待の新作」でもあげましたが、全国公開ではなく、知る人ぞ知る扱いな「未体験ゾーンの映画たち」での上映です。

「未体験ゾーン」は期間限定でオンライン配信しているので、わたしはそちらで観ました。(あとは『ゲヘナ』と『ビッチ・ホリデイ』あたりが気になってます…)24日までオンライン公開しているようなので、気になる方はお早めにどうぞ。

 

というわけで期待値高めで鑑賞したカルロス・ベルムトの新作。

『マジカルガール』における「それぞれの思惑が絡み合い運命の歯車が狂っていく話」というよりは、今作は「それぞれの思惑が運命の導くまま在るべきところに落ち着く話」といった印象で、ある意味先が読めるというか、前作のようなあっと驚く展開の映画ではありません。ですが、物事がじわじわと悪い方向へ進んでいく不吉な雰囲気はさすが。観客を信頼した編集、説明や描きすぎを排したカットに、終始ゾクゾクさせられました。

特に終盤の流れるようなワンカット風のカット割りからのラストシークエンスは一見の価値あり。あっさりと、さりげなくとんでもないものが映し出されますので、目を凝らして観てください…。

 

また今回は歌手が主人公とあって、楽曲の歌詞と人物の気持ちがシンクロする描写が多いです。『マジカルガール』では「春はSARASARA 」や「炎の少女」などの楽曲が印象的な使われ方をしてましたね。

ちなみに原題の『QUIEN TE CANTARA』は「誰が君のために歌うの」という意味なのですが、これは"mocedades(モセダーデス)"というスペインのボーカルグループによる1978年発表の歌から取られています。

ABBAやママス&パパス、ジェファーソン・エアプレインあたりを彷彿とさせる、どこかヒッピーな風を感じる歌ですね。

この楽曲も、リラとヴィオレタの距離が縮まる印象的なシーンで流れます。

 

 

母と娘の呪い

今作で描かれているのは、言うなれば「母と娘の呪い」です。

歌手のリラは10年前に母を亡くしたことで歌うことを辞め、ヴィオレタは荒れた娘に手を焼き、それ故に絶望を感じています。二人とも「娘であること」「母であること」の呪縛に囚われた女たちなのです。

そんな二人が運命的に出会い、「自分を真似する相手の真似をする」という鏡合わせのような関係性を築く中で、やがて同化していきます。本作は、「娘」と「母」が互いを模倣することで、母娘の呪縛から逃れようとする女二人の物語なのです。

その「女」の描き方はどこかアルモドバル的です。ベルムト監督もスペイン出身ですから、こういった女性像はラテン特有のものなのかもしれません。

 

「唄を忘れたかなりやは、後の山に棄てましよか…」

と、西條八十は「かなりや」という詩でうたっています。でも「いえいえ、それはなりませぬ」とそれを否定していますが、はたして、歌わなくなったカナリアは守られるべきのか?それとも、葬られるべきなのか?

それとも…。

 

 

 

以下ネタバレ!

 

 

ちなみに監督の前作『マジカル・ガール』のわたしの感想はこちらです。

 

 

 

搾取する娘、模倣する娘

「娘は生まれながらにして母を搾取し、成長はその模倣でしかない」

…わたしは自分と母のことを省みる時にそんな風に考えるのですが、この考えは真理であると同時に呪いであるとも思っています。そんなことを考えているわたしにとって、この映画はとても辛いものがありました。

 

ヴィオレタの娘マルタは、「金を出さないなら死んでやる」とナイフを首に当てて母親を脅す娘として最初は登場します。母であるヴィオレタも、それをたしなめるでも怒るでもなく、あっさり金の在り処を吐いてしまう。

最初はなんて凶悪な娘!とたじろいでしまいましたが、マルタのこの行動って、親の愛を試しているに過ぎないんですよね。

シングルマザーのヴィオレタは、「娘のためにシンガーソングライターの夢を諦めた」と話しています。

おそらく、ヴィオレタはマルタに対して「この子さえいなければ」という気持ちを抱えて子育てしてたんじゃないかと思うんですよ。

その結果、マルタは「母に愛されていないんじゃないか」という不安を抱えたまま成長してしまった。だから母親の愛情を試すような行動を起こすんですね。彼女が命を差し出すような行動をするときは、ヴィオレタが男の家に泊まったり、リラとの関係を深めていったりと、「母の愛が自分以外のものに向いている」と悟った時なんですね。

本来ならこういった行動は思春期の頃の反抗期と自立心の目覚めによって解消されていくものなのですが、23歳になっても定職に就かず、モラトリアムな彼女はその延長を引きずったままでいる。

もちろんそれはマルタ側だけの問題ではなくて、ヴィオレタが娘と向き合うことから逃げてきた結果なんだと思うのですよね…。

この母娘の関係は共依存的で、実は多くの「娘」が通ってくる道のような気がします。

 

一方のリラは、終盤で「自分の歌はすべて歌手を目指していた母の創作だった」と母が自身のゴーストライターであったことをヴィオレタに告白します。リラは、母親を模倣したに過ぎなかったのです。その秘密を隠すため、ヘロイン中毒の母親に致死量のヘロインを渡してオーバードーズさせていたのでした…。

母は娘に夢を託すが、娘は結局、母のようにしか生きられない。

リラは歌を捨て、海に入り、自らを葬るつもりだったのでしょう。

けれど代理母のようなブランカによって命を救われ、合わせ鏡のようなヴィオレタによって、歌を与えられることとなってしまったのです。

 

 

カナリアは歌う

リラの真似をしていただけのヴィオレタの方が、実は「唯一無二(ユニーク)」の「スーパートマト」だったという皮肉。

リラはヴィオレタの真似をすることで、歌を取り戻し「ヴィオレタ・カッセン」と名を改め復活を遂げます。

一方のリラに自身を奪われた形のヴィオレタは、「母であること」の呪縛から逃れたために娘を失い、母である自分さえも手放してしまいました。彼女に残された道はもう、一つしかありません…。

しかし、この運命はリラが海へ身を投げた物語のはじまりから決まっていたように思えます。

リラ=ヴィオレタ=リラ=ヴィオレタ…という永遠に続く合わせ鏡の中で二人は同一化し、二人揃って「リラの死」という必然に向かって進んでいたに過ぎない。

だから鏡に映る姿はぼやけたまま、その答えを明らかにすることなく、女は海に消えていく。

わたしはただ、彼女たちが母娘の呪いから解放されることを祈るしかありません。

 

さて、先ほど紹介した西條八十の「かなりや」の詩ですが、最後はこう終わります。

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
象牙(ぞうげ)の船に銀の櫂(かい)
月夜の海に浮べれば
忘れた唄をおもいだす

歌いはじめたカナリア=リラ改めヴィオレタ。二人の歌う歌に秘められているのは、彼女たちが娘であり、母であったという事実です。しかし、リラ=改めヴィオレタは、その秘密を隠したまま、模倣のまま偽りの歌を永遠に歌い続けなければならないのです。それは果たして幸せなことなのかどうか…?

 

歌を忘れたカナリアが二度と歌わなくても、その存在だけで唯一無二なのかもしれません。

母も、娘も。そして、わたしも。

 

 

 

作品情報
  • 監督 カルロス・ベルムト
  • 製作年 2018年
  • 製作国・地域 スペイン,フランス
  • 原題 QUIEN TE CANTARA
  • 出演 ナイワ・ニムリ、エバ・ジョラチ、カルメ・エリアス