あらすじ
シングルマザーの早織(安藤サクラ)は小学5年生になったばかりの息子・湊(黒川想矢)の様子が最近おかしいことに気付く。靴が片方なくなり、水筒には泥水が……。いじめ?体罰?問い詰めると息子は重い口を開き、担任教師の保利(永山瑛太)から心ない扱いを受けていると語る。学校との交渉の末に保利は退職し、すべては丸く収まったかに思えたが……台風の朝、湊は忽然と姿を消す。
6/6大幅に加筆修正しました。
今年のカンヌでクィア・パルムを受賞した本作ですが、その前の会見での模様についての記事が出ていました。
はっきり言うと、映画を観終わってこのことを思い出して(実際には観てる最中も)、なんで、監督はこんなことを言ったんだろうと、ものすごく悲しくなりました。
この映画を作った人には言って欲しくない言葉でした。
以下、映画の話はあまりしていませんが、ラストについて少し言及しています。あまり褒めていませんが、映画そのものついては肯定的に受け止めています。もし本作が日本社会に良い影響をもたらしてくれるのだとしたら、それはとても喜ばしいことだと思います。
映画の出来は素晴らしい、かもしれないが…
この映画は、クィアであるとされる子どもたちが登場する明白にクィアな映画です。それは、はっきりと言えると思います。なぜなら、それがむしろ物語の根幹をなすとも言えるものだからです。
既存の社会規範やことなかれ主義といった、大人たちが作り上げた不均衡な構造(そこには当然、同性愛嫌悪的なものが含まれます)の中で、ひたすら追いやられていく子どもたちの話なのですから。
2人の間にある感情はもしこれが「男の子」と「女の子」であれば、容易に「初恋」だの「小さな恋」だのと言われるものだろうと推察されます。
でも、2人が(世間的に)「男の子」(と見なされている子ども)だから、その明言を避けているに過ぎません。少なくとも2人はお互いを「好き」だと認識しています。それが「友情」と括られるものではないことは、映画を観ていれば明らかです。
その2人の関係の上に物語が立脚しているという構造なので、これを「普遍的な~」といったよくある、紋切り型のコメントで濁して終わりにするようなものではないのではないでしょうか。
まず作り手側はそれを明確に認めた上で、本作について語るべきだったと思います。少なくとも、2人の間にあるものが「恋心であること(その可能性があること)」を否定するようなコメントは、すべきではなかったでしょう。それはまさに、保身のために嘘をついたり規範から外れることを許さなかったり何の気なしに偏見を助長し続けたりするような、この映画に出てくる大人たちと同じ行為にほかならないからです。
この映画は、そういう大人たちのことを批判しているお話しなのですから。
作中で2人が自身をどうアイデンティファイしているのか定かではないように描かれていますが(セクシュアリティもゲイなのかバイなのかパンなのか、あるいは別のものなのか。ジェンダーアイデンティティについても曖昧にされていたように思います)、そうであるならばなおさら、それを「内的葛藤」という言葉で誤魔化すのは不誠実であるように思えます。
なぜならそういった葛藤や揺らぎが「ある」とするのが、性別二元論によらない「クィア」の考え方だと思うからです。
映画を観ながらわたしが懸念を抱いたのは、特に若いクィアな人たちが、予期せず本作に触れることになるかもしれない、ということです。劇中、明らかにホモフォビックな描写があり、それも一度や二度ではなく、過去(いや現在進行形で)そういった経験にさらされたことがある人にとっては、トラウマを抉られるような演出になっています。なかなかにしんどいいじめの描写もあります。
わたしは、自分の友人や子どもにこの映画を「前情報なしに」観せられないと思います。もしあの場で作り手側が、「LGBTQについて描かれた映画です」とはっきり言ってくれていたら。
その上で、クィアな子どもたちの生きづらさについて描いたものであること、そしてそれを作り出している大人たちについての映画であること、とか。
そういう社会を生み出しているこの国の残酷な構造、であるとか。
差別や偏見なんてない、なんて言ってる人がいますがそんなことはないです、そういう社会を変えるために作りました、とか。
あの場で、そう、言ってくれていたら。
作品に対する印象もかなり違ったのではないかと思います。
セクシュアリティを「ネタ」バレにするということ
本作について「ネタバレを踏む前に観てください!」「前情報を入れずに!」などというレビューが散見されていますが、それはこの映画を観てもなんら傷つくことはない人たちに向けての言葉ですよね。
そもそも「ネタバレ」が成り立つためには、その「ネタ」が隠されていなければなりません。では、本作で隠されていることについて、考えてみてください。
セクシュアリティは、「隠すべきネタ」なのでしょうか?
そもそもこの映画では、そう見なされる社会に生きていることで苦しむ子どもたちを描いているように思いましたが、それはわたしの見当違いでしょうか?
「ネタバレ」扱いにできるのは、誰もが「シスヘテロ」であるという前提の上にのっているからなのではないか?
それは「マイノリティ」とされる人たちの物語を簒奪して踏み台にすることではないか?
物語の構成によって、暗に「隠すべきこと」というメッセージを送ることになるのではないか?
作り手の人たちは(そしてできれば受け手の観客にも)、これまで「当たり前」とされてきたものを疑って、いろんなことに意識を向けて欲しいと思います。そもそもこれら(映画の内容や作劇方法だけでなく、宣伝広報などに至る全てのことです)のことは、今に始まったことではなく、ずっと、幾度となく繰り返され批判されてきたことなのですから。
少なくとも製作陣には、これだけテーマに組み込んでるのだから、同性婚の法制化について(校長先生と湊の会話の、「一握りの人しか掴めない幸せ」としているものは、法律婚含め、シスヘテロ社会のシステムそのものを暗示しているようにも考えられます)くらいは、明確なスタンスを表明してくれてもいいような気がします。
なんかそういうところも、日本の映画界全般が残念に思えてしまうところなんですけどね。
あと、これはこの映画に限りませんが、「マイノリティ」とされる人たちの物語を自分事としてとらえるために普遍性が必要になることは確かにあります。「自分もこういうところあるな」「この気持ちわかるな」と引き寄せて考えるのにそれは有効に働きます。
ただそれによって「だからみんな同じなんだ!」と物事を相対化することは、現実を無視したあまりに乱暴なやり方ではないかと思います。だって、現実に差別があったり、個別の苦しみが確かに存在しているのですから。
本作の2人が悩み葛藤し苦しんでいたのは、自身のセクシュアリティ含めアイデンティティが周囲から認められない/認められることはないと考えていることから来ているものです。それは本当に「みんなと同じ」「誰にでもよくあること」ですか?
そう見なして語りだしたら、本来あるはずの問題を覆い隠すことにはならないでしょうか。
普遍的に捉えることと相違を認めることは、どちらか一方ではなく両立し得るものです。「わかる同じだね」「違うんだね知らなかった」それは相互理解のみならず、それぞれの生き方を認め合い豊かにするために必要な営みであると考えます。
「マイノリティもマジョリティもない」と言う人もいるかもしれません。そういった耳障りのよい言葉は、もっともらしく聞こえます。けれどもわたしはそういった物言いは、「差別を指摘する人が差別してる」論法の性質と似ているなと思います。
こうした物言いは、マイノリティを標的にしたヘイトクライムが起きた時に「差別ではなくその人がそこにいたから攻撃されただけ」という論法がなされることにも繋がるとも思っていて、わたしは特に警戒しています。なぜならそう見なしてしまったら、本質的なところではなんの解決にもならないからです。ヘイトクライムはヘイトクライムとして認識しなければ、先へは進めません。
「幸せになって」なんて簡単に言わないで
前述の通り、本作はかなりトラウマを抉る演出をしています。
「星川くん」(←劇中そう呼ばれているので、便宜上"くん"付けします)の父親は、我が子のSOGIをすでに把握しているようで、おそらくそれを矯正しようとさえしている。つまり、虐待です。家族から自身の存在を認めてもらえず、孤立して居場所を失っているLGBTQ(かもしれない含む)子どもたちは未だにたくさんいます。それがどんな結果をもたらすかは、すでに多くの作品で語られています。
本作でも「生まれ変わり」という言葉が何度も登場します。それはうっすらとした希死念慮であり絶望感と言えるものだと思います。……なんかもう、胸が潰れそう。
また湊も、教師や母親の日常的な言動から自身が理解されることはないと、ある意味で諦めている……そういう子もほんとに多いでしょう。誰に、何を相談すればいいのか、その方法さえわからないのに、それを「隠さなきゃいけない」ということだけはわかっているという……。こんな悲しいこと、なくないですか?
テレビをつければ同性愛や異性装を揶揄したり、他者のアイデンティティを茶化したりしている。
ネットを開けば、正しい情報や知識の前に偏見の壁が高く高く立ちはだかって、差別的な言葉が溢れたりしている。
法的な後ろ楯もないばかりか、「理解」にさえも二の足を踏む大人たちがいる。
世界中でヘイトクライムが横行し、多くの性的マイノリティが現実に、攻撃にさらされている。
そんな社会を目の当たりにしながら、子どもたちは成長していくんですよ。大人たちが他人事みたいに「幸せになって欲しい~」なんて言ってる間に、多くの子どもたちが絶望の縁に立たされてるんですよ。
映画の大人たちは、誰も2人を幸せにできませんでした。気付いたときには何もかもが遅かったからです。
だから後悔する前に、子どもたちが苦しむ前に、その元となるものを断ち切らなきゃならない。
そのことを、どれだけの大人たちが認識していますか?
シングルマザーへの偏見、学校という狭い社会における権力勾配、女性の管理職が背負うものなどといった、「大人たちの事情」があるのももちろんわかります。
でもそれは、子どもたちの苦しみとイコールで結べるものなのでしょうか?相対化することで、見えなくなるものはないでしょうか?
最初にこれはクィアな映画だと言いましたが、でもこの映画を観てエンパワメントされるクィアな子どもはおそらくいないでしょうし、大人でも打ちのめされる人がいることでしょう。なのでそれについての注意喚起は妥当だと思います。
そういう意味ではこれは「LGBTQに特化した映画ではない」でしょうし、「クィア映画ではない」のかもしれません。言うなれば、クィアな子どもたちなど存在しないと思い込んでいる、ガチガチの性別二元論にどっぷり浸かっている「大人たち」に向けて作られたものである、とは言えるでしょう。それも、丁寧すぎるくらいお膳立てされています。2回も3回も、やれ結婚だの、男らしくだの、わかりやすく「何が引き金になったのか」を説明してくれてるんですから。
でも、正直なことを言えば
今さら?また?まだそれ?
と感じている当事者やその関係者がいることにも思いを馳せてください。だって、ここ最近のことじゃないでしょ?何年もずっと言われてることだよ。それを「映画」に携わってる人たちが知らないはずないし、「題材」に扱うんならそれくらい知っておくべきでしょ。
さすがにもう、それくらい、わかってよ。
映画は、「星川くん」と湊が晴れやかな青空の下を元気よく駆けて行って終わります。その先がどこへ繋がっているのか、明示されてはいません。
今日も日本列島は雨が降り続いています。
空に虹がかかるのは、まだまだ先のようです。
作品情報
- 監督 是枝裕和
- 脚本 坂元裕二
- 音楽 坂本龍一
- 英題 MONSTER
- 上映時間 125分
- 製作国 日本
- 製作年 2023年
- 出演 安藤サクラ、永山瑛太、黒川想矢、柊木陽太