あらすじ
俳優で舞台演出家の家福(西島秀俊)は、脚本家だった妻の音(霧島れいな)を亡くし、言い様のない喪失感を抱えていた。家福は広島で開催される演劇祭にて披露される「ワーニャ伯父さん」の総合演出を任されるが、運営側の意向により車の運転は専属ドライバーの渡利(三浦透子)が担当することに。当初は難色を示していた家福も、渡利の行き届いた運転に次第に心を許すようになっていく。
やがて自身の中にわだかまっていた妻への思いと向き合い、新たな人生を歩み出す。
村上春樹原作、濱口竜介監督のカンヌ映画祭脚本賞受賞作。確かに、映画賞や監督賞ではなく脚本賞が適切な作品でしたね。特に劇中劇の製作過程の部分は映画論というより、脚本論や演技論についての話ですよね。
もうすでにいろんな方がいろんな感想やレビューを書いていると思いますので、軽く所感を綴っていきたいと思います。
ただ、とても興味深く観ましたが、特に好きな映画でもないって感じなので温度は低めです。そこのところをご理解いただきたく。
ちょっとネタバレしてます。
妻が言おうとしたことはなんだったのか
大まかなあらすじを言えば、妻を亡くした夫がその喪失と向き合いそれを受け入れ前に進んでいくというもの。刊行されてすぐに原作も読んだのですが、印象としてはもっとあっさりしていて、映画は膨らませに膨らませてまったくの別物になってたなと感じました。幾分ウェット感が増してますね(悪い意味ではない)。
テーマとしては同時期に観た『アナザーラウンド』と近いものを感じましたね。本作も中年の危機と男性性のこじらせの話として観ることもできるのかなと思います(家福、渡利さんに対してかなり横柄な感じがして正直、いけすかなかった)。
さてはて。言葉によるやりとりの多い作品ですが、実は秘されているものの方が圧倒的に多いのも特徴的。中でもなんのヒントもないのが、妻が最後に家福に話そうとしたのはなんだったのかということです。
「別れましょう」だったのかもしれない、あるいは「子どもが欲しい」だったのかもしれない。単純に不倫の告白だったかもしれない。
ただわたしはなんとなく、「娘を殺したのはわたしだ」だったんじゃないかと思うんですね。
渡利は母親を見殺しにしたことを、家福は早く帰れば妻を助けられたことを、それぞれ引け目に感じている。それと同じことが妻・音にも起きていたのではないかと、高槻が語った「空き巣に入る女子高生」の話の続きから、そんな風に思いました。
夫婦の娘は4歳の時に肺炎で亡くなった(原作では生後間もなくだった)、とされているので、おそらく主たる養育者だった妻がなんらかの遠因を作ったと考えていたとしても不思議ではないです。というか、母親ならばそう考えて当然だと思います。
死における悲劇性を自責の物語として消化することは、ある意味で癒しとして必要な過程だとわたしは考えています(=「わたしが悪かったのだ→いいやそうではない」というセラピー的な問答が必要だということ)。その自責の念が、時に人を生かすこともあるし、一方で生きながら殺すこともある。妻もずっと、その自責を抱えて他の男たちと肌を重ねていたのではないでしょうか。それは広義の自傷行為にも見えます。
とはいえ、実際のところ、音の死因はくも膜下出血で、渡利の母親も土砂崩れが直接の死の原因です。音の罪悪感もきっと、端から見れば見当違いのものだったかもしれません。
それでも、音はその罪の意識を夫と共有したかったのだと思います。そして、男たちとの関係を責め、娘の死についてもその責任を問うて欲しかったのではないでしょうか。
家福は彼女を責めない代わりに、娘の死という悲劇をまわりだけ取り繕って受け入れてしまい、真の意味で音と繋がることができなかった。彼女はその悲劇に片足を突っ込んだまま、最後は飲み込まれてしまったようにわたしには思えました。
Gのいる家、いない家
いきなり話が変わりますが、わたしはG(隠語)が嫌いです。多分好きだと言う人はそうそういないと思いますが……。
姿を見るのも嫌なので、家には置き型の殺虫剤を複数個設置してます。
じゃあ、うちにGがいるのかと言えば、実際のところ姿を見たことは一度もありません。殺虫剤を置くことの他にも、生ゴミを適切に処理するとか食べこぼしをほったらかしにしないとか気を配ってますので、いない、と言いきっても良いのではないかと思います。
でも、殺虫剤を置かないと言う選択肢はない。いるかいないか、わからないから。
この映画も多分、そんな映画だったんじゃないかと思うんです。
ゴキブリは、言うなれば本作で言うところの「真実」です。いや、見たくないものだから「不都合な真実」ですね。G同様、目に見えなければ無いものと同じ。無いものとするために防御線を張りますが、それは「真実がなくなる」こととイコールではありません。見えなくしてなんとなく「なかったことになっている」ように見せてるだけなんですよ。
ある時、長男が言いました。
「お母ちゃんめっちゃゴキブリ嫌い嫌い言ってるけど、もし出てきたらどうするの?逃げるの?」
「うーん……最初は逃げる、とは思う。でも多分、最終的には殺すね」
「ふーん。結局殺すなら、何を恐がってるの?」
その時は「恐いものは恐いじゃん!」と思ったけれど、なんとなくその時のやり取りが思い出されました。
明らかにされなければ嘘は真実のままだし、どんなに悲惨な出来事も覆い隠されたままならなかったことも同じです。どんなに人を殺したと叫んでも、証拠がなければただの戯れ言。
でも、わたしだけの「真実」は絶対に揺るがない。それは言うなれば自分の人生を乗りこなすための「ハンドル」のようなものです。
そして、ほんとうにつらい時にはそのハンドルを、誰かに任せることも必要なのかもしれない。「沈黙は金」で取り繕うことで得られるものなど、実はたかがしれてるのかもしれません。
脚本を読み込み演技を引き出すこと。
ハンドルを握り車を乗りこなすこと。
真実を受け入れ人生を生き抜くこと。
それらをゆるやかなイコールで繋ぎ、紡いで見せたのがこの映画だったのかなと思います。
とか、なんかそれっぽいこと書いたけど、全然見当違いも甚だしいかもしんない。わたしはどっちかっていうと「沈黙は気まずすぎて笑う」タイプの人間なので(苦笑)。てかね、妻の不倫現場に遭遇するシーンで思わず「気まずっ!」って笑っちゃったし、高槻が事故ったのを見られるシーンも「気まずっ!!」って爆笑しちゃったので、そんな深刻な顔しないで笑えばよくない?って思っちゃった~。
はい。というわけで、お前の人生は軽自動車並みに軽すぎるんだよっ!と思われたところでおしまいです!!(なんだこのオチ)
追記:ラスト、家福は妻の分身でもあった車を手放し、渡利は新天地で新たな生活を初めた、とわたしは観たのですが、どうやら渡利が家福の運転手を続けているあるいは新しいパートナーとなった、と解釈した人もいたようで。いやー、うーん、だとしたらそれはちょっと、嫌かなぁ……。
作品情報
- 原作 村上春樹
- 監督 濱口竜介
- 脚本 濱口竜介、大江崇允
- 音楽 石橋英子
- 製作年 2021年
- 製作国・地域 日本
- 出演 西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生、パク・ユリム