あらすじ
離島から東京へ家出してきた少年・帆高は、念じるだけで晴れをもたらすことのできる不思議な能力を持つ少女・陽菜と出会う。生活費の必要な二人は「お天気ガール」というサイトを作り、陽菜の能力をビジネスとして活用する方法を思いつく。晴れを望む人々から次々と依頼が舞い込み、陽菜はその役割に喜びを見いだすようになっていく。
しかし帆高のある行動から、彼らは警察に追われる身となってしまう。逃げ惑う帆高が目にしたのは、異常気象に見舞われる東京の街だった。やがて、陽菜の能力に隠された秘密も明らかとなり…
かなりどうでいい前置き
雨ですね。
洗濯物が乾きません。
空模様を眺めてはため息をつく毎日。後回しにしている大物(冬用の毛の布団カバー)がまだ洗えていません。
ちなみに我が家の長男は天気予報を見るのが好きで(正確にいうと依田さんのお天気検定)、
「今日の天気は?」とたずねると
「くもりだよ」「ごごからおおあめだって!」「あめはよるだけだって。おせんたくほしてもへいきみたい」
などと教えてくれるので、「我が家のお天気ボーイ」と呼んでいます。今朝出かけに聞いてみたら、
「あめのち、くもりだって!」
とのこと。
…ハイ、まじでクソどうでもいいね!
約束された大ヒット
さて『天気の子』。
2016年の大ヒット作『君の名は。』の新海誠監督作とあって、公開前から注目度の高さがうかがえます。
ただねー、気になったのはタイアップの多さ。ソフトバンク、Google、日清、…一作品がここまで多くの企業とコラボレーションCMを打つのはあまりないことだと思いますね。「新海船に乗り遅れるな!」とでも言わんばかりの各社の商魂がミエミエで、個人的には「やり過ぎじゃね?」とは思ったよね…泥舟だったらどうすんねん。
まぁ、それだけ注目されているということなんでしょうけど。
わたしが行った映画館も初日とはいえ都心から離れているにも関わらずほぼ満席だったので、「ヒットが約束された映画」ではあるんだろうなとは思いました。
あ、あと『君の名は。』ファンなら大喜びできるシーンがあるので期待してください。ちなみに、白戸家のお父さんは見つけられませんでした(見つけた方あとで教えて)。
巫女とセカイ系
新海監督の作品のヒロインはたいてい「巫女」としての属性を備えた人物だと思うんですよね。
『ほしのこえ』の長峰ミカコは地球を救うためにロボットに乗り込み、『雲のむこう、約束の場所』の沢渡佐由理は眠り続けることで世界を守っていた。『星を追う子ども』の渡瀬明日菜は終盤で死者の器となり、『君の名は。』なんてまんま巫女さんだし。(秒速と言の葉も、「祈りを捧げる」という意味ではそうなのかも)
巫女とは、言うなれば広義の生け贄です。そして、それをヒーローが「救う」(救おうとする)というのが、新海作品の構造です…というか、ほとんど日本のアニメーション作品ってそうなんですよね、多分。ジブリにしろ、ドラえもんにしろ。
本作もまた、予告編を観たときから感じていた通り、「巫女なるもの」を救うお話です。そしてそれがまんま世界の運命と密接に関わっていくという、絵に書いたような「セカイ系」となるわけです。
けれども、『君の名は。』とはベクトルが真逆の方向に行くんですよね。そして最終的にその「巫女なるもの」の存在の是非を問う流れになります。
そこに居心地の悪さを感じる人もいるだろうし、その非現実性を受け入れられない、と思う人もいるかもしれません。
でもさぁ、
恋する若者に大人がとやかく言えるかぁ?
他人のことなんて、世界のことなんて、どうでもいいと思えるのが恋なんですよ!!
わたしは、帆高と陽菜の、二人の恋を応援したいと思いましたよ。
全然、「大丈夫」では、ないけどな!!(笑)
『君の名は。』の方がエモーショナルな部分が多かったとは思うし、おそらく万人受けは前作の方があるだろうとは思います。展開の強引さも前作より増していて、気になる部分は多々あります。でも、この決着は個人的にはとても好きです。
若者たちの考えを「大人になれよ」なんて言って否定してはいないだろうか?
夢や理想を語る人たちを「現実を見ろ」なんて言って笑ってはいないだろうか?
そんな「大人」や「現実」が我が物顔でのさばっている世界なんて、クソくらえだ。
映画を観終え、そんなことを考えながら映画館を出た。
空には一面の青空が、広がっていた。
以下ネタバレ。
誰かの犠牲の上に成り立つ幸福
わたしが本作で特に気に入ったのは、「誰かの犠牲の上に成り立つ幸福」にはっきりとNOを突き付けている点です。
「天気の巫女」の力を授かった陽菜は、異常気象のための人柱=生け贄として、人知れず「天の竜」に捧げられます。それによって東京の雨は止みますが、帆高はそれを良しとせず、陽菜を空から救い出すのです。
人柱がいなくなったことにより雨は降り続き、東京は水没する。
きっとそのことで犠牲になった人もいるだろうし、もし陽菜を空に置いたままにすれば多くの人が幸せになれたはずです。
誰かを犠牲にして成り立つ幸福か。
多くを不幸にしても守りたい誰かか。
少し前に「トロッコ問題」が話題になりましたけど、それとも通じるものを感じましたね。
確かに世界は、誰かが犠牲になることで均衡を保っている局面が多々あります。会社のリストラ、学校のいじめ、経済格差、児童虐待…。そして多くの場合、犠牲となるのは力の弱い者たちです。
それでバランスが取れるなら、と大人たちは半ば諦めその現実に甘んじています。所詮、世界は変えられない、と。でも、本当にそうなのでしょうか?
その犠牲が本当に大切な人だったら?
どうしても譲れない思いだったら?
それを諦めることが大人になることだというのなら、誰も大人になんてなるべきじゃない。
わたしはこの映画から、そんな強いメッセージを感じました。
そして、多分きっと、意思を貫いたところで大した問題ではないのです。
家が水没し、引っ越しを余儀なくされた老婆は「東京はもともと海だったから元に戻っただけ」と言い、
帆高の上司(?)の圭介は「世界なんかもともと狂ってるんだから気にしなくていい」と帆高に声をかけ「そんなことよりも、陽菜に会いに行け」と、彼の背中を押す。
狂った世界なんかより、結ばれる恋人たちの方が何倍も尊いのです。
隠された者たちによる混沌
そして帆高や陽菜と凪の姉弟の存在は、これまで隠されてきた貧困や様々なマイノリティのモチーフなのかもしれないと思いました。
これまで、その存在を知らない人間たちには、見えていなかったからなんの問題もなかったけれど、それが表出したことによって、今まで必要のなかった手順や制度が増えたりしたかもしれない。
それで世界が混沌と化しても、マイノリティが泣き続ける世界よりましだ、というのがこの映画なのだと思います。
少数のために大多数が不利益を被ることを良しとしない人もいるでしょう。
でも、その不利益や不都合を分散して引き受ける世界こそ、平等だと思う。それは雨が、等しく人々に降り注ぐのと同じように。
人間愛にできることは、きっとまだあるんじゃないか。わたしはそう思うのです。
現代の人柱
ここから先はわたしの勝手な考えなので無視していただいて良いのですが、ちょっと最近考えていたことがあったので書かせてください。
今現在、大昔でいうような、何かの身代わりに命を捧げる「人柱」は存在しません。けれど、日本の「ある制度」がわたしは原始の「人柱」の流れを引き継いでいるような気がしているのです。
それは、天皇制です。
いや、『天気の子』が天皇制の是非を問う映画だなんて思ってないし、わたし自身も別に天皇制を否定しているということではないんですけど、ただ偶然、最近別の媒体で天皇制と漫画『魔法騎士レイアース』を絡めた文章を書いたこととリンクしてしまいまして。
即位式の道中で悠仁さまが見せた、あの暗澹たる表情がどうしても頭から離れなくて上のような文章を書いたわけですが、いずれにせよ、何らかの形で一部の人間、一人の少年少女に犠牲を強いる制度というのはやはり歪んでいると個人的に思うのです。
この制度が、不自然な均衡で成り立っているということを我々は認識するべきだし、そのバランスがもはや崩れていることを自覚するべきだ段階にきていると思います。
この「人柱」を救える人が、今はまだ現れていないことが、多分今のわたしたちの「現実」の限界なのかもしれません。
どんな立場の若者も、等しく誰かに恋できる権利を。その自由を守れるような、大人になりたいとわたしは思います。
作品情報
- 監督 新海誠
- 原作 新海誠
- 脚本 新海誠
- 音楽 RADWIMPS
- 製作年 2019年
- 製作国・地域 日本
- 声の出演 醍醐虎汰朗、森七菜、本田翼、小栗旬