あらすじ
小説家の衣笠幸夫(本木雅弘)はバス事故で妻・夏子(深津絵里)を喪う。しかし、妻が死亡したまさにその時、他の女と不倫中だった幸夫は葬式の席でも本心から悲しむことができない。そんな折、幸夫は同じバス事故で妻を亡くした大宮(竹原ピストル)から親しげに声をかけられる。大宮の妻は夏子の親友であり、夏子と大宮は親交があったのだ。男手一つで子ども二人を抱える大宮に、幸夫は思わず子どもの世話を買って出るのだが…。
「ゆれる」、「ディア・ドクター」の西川美和監督の最新作。主演は「おくりびと」の本木雅弘です。
あらすじだけ読むと安いメロドラマみたいな展開を想像してしまうのだけれど、 そこは「ゆれる」の西川監督、ただのお涙ちょうだい的なお話にはならない。途中途中しんみりとするシーンは挿入されますがそこまで湿っぽくならないのがいいです。
劇的に何かが起こるわけでもなく、ゆるやかな、けれどもしっかりとした人間関係の変化を、悪意なく(多分ここが一番大事)描いていると思いました。
「配偶者との死別」と言うのは、ストレスチェックでは最上位の基準となるくらい過度の心労を感じるものとされています。
ストレスについて - 家庭の医学シリーズ - 藤元メディカルシステム
これは多分、愛情のあるなしは関係ないんですよね(いや関係あるけど)。同じ生活を共にしていた人間の不在というだけで、もう十分に辛いということなのでしょう。
今作の幸夫は急に妻を喪い、その埋めようのない喪失感を無自覚に抱えている。もう愛していなかったのだから死んでも悲しくないか、と言うとそんな単純なものでもない。人の感情は複雑です。後ろめたさ、欺瞞、自己愛、偽善…様々な感情を抱きながら幸夫は妻への思いの落とし所を模索していくことになります。
そして単純でなかったのは、自身への妻の感情も同じだと思うに至る。愛や憎しみなどと一言で片付けられないのが人間の感情。それを汲み取ることは本当に難しい。ましてや当事者が目の前から消えてしまったら。
概ねゆったりとしたペースで話は進むので、昨今のエッジの効いた邦画に見慣れた方は少し物足りないかもしれません。それから、監督自身が書いた小説が原作ということもあり、セリフが会話というより文章っぽいところも気になりました。でも、ある意味小説的だから良いセリフというのもあったので、そこは人によっては欠点ではないのかもな。
あと、子役の2人はとてもかわいらしく、子どもとのシーンはアドリブも入ってるのか、自然ですごくいいです。料理のシーンとか、「ちゃぶちゃぷローリー」とか。
特に灯ちゃん役の子、聡明で天真爛漫、甘え上手なザ・妹をナチュラルに演じていました。
白鳥玉季ちゃんという子だそうです。言動がかわいくて表情もいい。モッくんじゃなくてもメロメロになるわ。
子役の2人はもちろん、キャストの演技はやはりさすがと言ったところ。チャラさと不安定さの二面性を持つ幸夫を演じたモッくん、他の人がやったらただのクズと思われちゃうところを、絶妙な繊細さで演じていましたね。ゲスい言動があっても、悪い人じゃないんだろうと思ってしまう、なんか憎めない感じね。
また、深津絵里は西川美和監督らしい思わせぶりな演出のおかげで(?)出演時間はトータル10分程度だと思うのですが、強い印象を残します。特に海辺のシーンはね、卑怯なくらい秀逸。
竹原ピストルは強面なせいで「キレる?キレない?」というのが繰り返されてちょっとあざとすぎたかな。彼は最後までいい人ですから、安心してください(笑)。
観終わった後、お子さんや配偶者のいらっしゃる方はその関係性に思いをはせたくなるかもしれません。少なくともわたしは、家族に(特に子どもに)もっと優しくしておかないとなーと思いましたね、いつ死んでもいいように…ってそういう映画ではないんだけれど(笑)。
以下ネタバレあり。
「子育ては男の免罪符」
大宮の子どもの世話を引き受けた幸夫は、彼らと接することで次第に2人の子どもたちへの愛情を自覚し、ある種の慰みと癒しを得る。「(子どもの世話なんて)僕らしくないか」と、問う幸夫に、マネージャーの池松壮亮は「全然いいと思います、それって逃避ですよね」と言い放つ。
二児の子を持つ父親でもある彼は「子育ては男にとって免罪符。どんなに自分がクズでも子育てしてれば許されるような気になる」と、言うわけです。
このセリフは正直、ドキリとしましたね。男だけでなしに、女のわたしでも似たようなこと思うことあるので。もちろん、子育て=善というわけではないのだけれど、わたしの場合は自分がダメ人間な分、拠り所になっているのは確かだなぁ…と。
子ども関係では他にもちょいちょい胸に刺さるようなセリフがいくつかありました。大宮の長男が父親に反抗した時の「興味ないでしょ、ぼくが勝手にやってることだから」、「殴ったって痛いだけで何も変わらないよ」とか、これ子どもに言われたらキツイよなーと思いながら観てました…。
子役以外では、黒木華の「バカみたいな顔」もインパクトありましたねー。でもこのセリフは、逆に男に言ってやりたい女子は結構いるんじゃないでしょうか(笑)。
愛してない、愛してる
あと、女性の言葉では、妻・夏子がスマホの幸夫宛のメール下書きに残した「もう愛してない。ひとかけらも。」も気になりました。
普通は「これっぽっちも」の方が自然だと思うので、「ひとかけらも」のポエミーな感覚がいかにもメールの下書きといった風情なのですね。
この妻のメッセージをどう受け取るか。幸夫は額面通り、「自分にはもう愛情がない」と捉えて怒り心頭に発する(自分は浮気していたくせにね)。でも、序盤の幸夫の散髪をする夏子の様子からは、愛情のない人間への接し方とはどうも思えない。幸夫が頭にきたのも、「愛してない」という妻の本音が、あまりに唐突過ぎたからなんでしょう。
それから夏子は出かける際、「悪いけど、後片付けお願いね」と言って家を出ます。この言葉を、幸夫は髪を切った後の「後片付け」と捉えて「そのつもりだけど」と返します。
けれどももしかしたら夏子はこの後、幸夫が家に不倫相手を呼ぶことを知っていた上で「後片付け」と言ったのかも、とも思えるんですよねー(そう考えると意味深な間も納得できる)。
そしてこの「後片付け」はラストの伏線にもなっている。今作のラストシーンは幸夫が夏子の遺品整理をしている様子で終わるのですから。
彼女が何を思っていたのかは結局最後までわからないんですよ(これが安いドラマだと、何かに残された妻から愛のメッセージに気づいて夫がおいおい泣く、というのがデフォルト)。
もう愛情なんてなかったのかもしれない。でも結婚して20年間、当初と同じ気持ちのままいられる夫婦の方がきっとまれで、時には嫌になったり、愛情が薄れることだってある。そういう複雑な心理を抱えながらも関係性を続けていくのが、夫婦というものなのではないかな、とね、思ったりしました。もちろん、それは夫婦に限ったことではなく、人と人の関係は往々にしてそういうものだと思います。
代替と役割
幸夫は大宮一家との生活に癒され、そこに自分の居場所を築きあげていけると錯覚する。でも、所詮はそれは代替でしかないわけです。
幸夫は大宮の家族ではないし、子どもたちの母親にはなれない。そしてもちろん、大宮家は自分にとって妻の代わりにもなれない。彼が求めていた居場所は元々そこにはないものだったと気づく。
最終的に、作家である彼は小説を書くことで、自分自身に落とし前を付ける。そうして幸夫は幸夫として、大宮一家と新しい関係を築きはじめる。もちろん、妻との関係も。
誰かとの出会いや別れを繰り返しながら、人は新たな役割を自分にプラスしていく。夫という役割、職業としての役割、父親、友人、その他諸々。
幸夫は元々ナルシストで自意識過剰、それでいて卑屈で人の目を気にして生きるタイプ(痛々しい無表情のエゴサーチでもそれがよく表れています)。そんな彼でも、自身の恥を晒すような私小説を書くことができた。それはある意味成長だし、自分なりの新たな役割を得られた、と言うことなのかな。
今作は、「ラブストーリー」と銘打たられてますけど、根本は大人の成長物語だと思いましたね。
良くも悪くも「いい話」でした。