あらすじ
アイルランド内戦が激化する1920年代。戦火の被害が及ばない小さな孤島では、気の良い男パードリック(コリン・ファレル)が親友だと思っていた男コルム(ブレンダン・グリーソン)から突如距離を置かれて戸惑っていた。理由を訊ねると「嫌いになった」と言われるが、まったく思い当たることがない。
酔って不用意なことを言ったのか?
気に障ることをしてしまったのか?
悶々としながらも関係修復をはかろうとするが、その行動は思わぬ事態を引き起こす。
『スリービルボード』のマーティン・マクドナー監督作。賞レースでも話題になっていたので期待していた人も多いのではないでしょうか。
かくいうわたしも楽しみにしていた映画で、前情報をほとんど入れずに観てきましたよ。というわけで最初の感想は……
へこんだ~ーー!!!
まじでへこんだ。(後述)
前作同様、今回もボタンをかけ違えてしまった人たちの危うい関係性を、独特のユーモアを交えて描いていましたね。
戦争や内戦のような大きな衝突を対個人間の「いさかい」という比喩と並列で表現した作品て他にもいろいろあると思うんだけど、これは「いさかい」の発端が戦争とはほとんど関わりがなく、それぞれの陣営も「戦場」とはかけ離れたたところにいる、というのが肝なのかなと思います。
アイルランド内戦を題材にした映画というと、ケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』なんかを思い浮かべるんだけど、ただ本作は内戦含めてアイルランドのことに関してはほぼほぼ舞台装置でしかなくて、かなりフワッとしてるなーという印象を持ちました。
どうやらマクドナー監督、ご本人はイギリスでお生まれのようなのですが、ご両親がアイルランドご出身で、過去にもアイルランドの架空の島を舞台にした戯曲を何本か書かれているそうです。特に「アラン諸島三部作」と呼ばれる作品郡は、愛猫を殺されて暴れる主人公が出てきたり、障がい者の青年が登場する作品などがあるようで、本作にも通じるお話みたい。気になる!
邦題にある「精霊」は原題では「バンシー(Banshee)」で、もともとはゲール語で「女の妖精」という意味(女の意の"bean”と、妖精の意の”sidhe"がその名の由来)。ケルト神話やスコットランドの伝承に登場し、死人が出る家の前ですすり泣くとか、死ぬ予定の人の衣服を川で洗うとか、いろいろ言い伝えがあるようです。映画では川の近くに暮らす老婆がその役を担っていましたね(アイルランドではバンシーは少女の姿をしているという伝承もある)。
ちなみにバンシーはアイルランド妖精の代表格「レプラコーン」と同様、映像作品にもよく登場してて、『スクリームオブバンシー』みたいなB級ホラー作品もあるし、『アメリカンゴッズ』では葬儀屋の前で泣き女(大声で泣いて葬式を盛り上げる?女性のこと)の真似事をしていたり、最近だとNetflixドラマ『インパーフェクト』でメインキャラの一人が声で攻撃する能力を「バンシー」と表現していました。
さてはて、そんな"女の"妖精である「バンシー」をなぜタイトルに持ってきたのか?そこにどんな意味があるのか?ということを考えた時に頭をよぎったのがこの本。
わたしとしては、そういう話なのかなーと思って観ました。
以下ネタバレありですが、例によって例のごとく、映画の話はあんまりしていません。
人を嫌うということ
おそらく、多くの人がそうだと思うのですが、誰かを嫌いになる時って、ある日突然「こいつ嫌い!」ってなるわけじゃないと思うんですよね。もちろん最後の一押し、みたいなものがあったりするとは思うんですけど、ある程度の「なんだかなぁ……」の積み重ねの果てに「はい無理ー!」が来るもんじゃないかなって気がするんです。
映画ではコルムの「なんだかなぁ……」が映されることなくいきなり「はい無理ー!」からはじまるのでパードリック同様わけがわからないんですが、徐々にパードリックの行動が見えて、人柄というか性格というか人間性みたいなものがわかってくる。
ただそれがイコール嫌いに繋がるかどうかは人それぞれというところもあるんだろうけども、ただわかるのは、少なくともコルムはパードリックとの「違い」をはっきりと認識してるってことなんですよね。
パードリックにはそれがない。
そこにイライラさせられるというのはね、めっちゃわかるなって気がするの。
例えば、パードリックの方が幾分か若いし健康だし、一応安定した職があって身の回りの世話をしてくれる妹もいる。内戦にも我関せずで「どっちがどっちかわからない」なんて言えるし(これに関しては映画全体がそんな空気…)、パブでお酒飲んで帰って、妹が作ってくれたご飯食べて妹が洗濯してくれたパジャマ着て妹があつらえてくれたベッドで寝る。
そのありがたみを彼はわかってないし、それが「当然」であるとも思ってる。
「お前は退屈だ」「音楽を作る(自分の)時間が欲しい」というコルムの言い分は嘘じゃないけど、わたしはそこは本質ではない気がして、おそらくパードリックのそういうお互いの「違い」みたいなものをまったく意識することなくこちらの領域にまで入ってくるところが嫌だったのかも、だとしたらそれはなんとなくわかるなーって思った。
でもそれを指摘したところで、こういう人は思い至るとか反省するなんてこと多分ないよね。そういうのを、「友だちなら」「家族なら」やって当然、受け入れて当然、って思ってるような人は特にね。
もしかしたらコルムはこれまでにもやんわりと「なんだかなぁ」サインを出してたのかもしれない。でも気付いてもらえなかったから言っても無駄だろうって感じて、「はい無理ー!」を発動するしかなかったのかもしれなぁ、とも思う。
いろいろやり過ぎちゃったことは否めないけど、そこを責めることはできないなぁ、なんて思ったり。
人に嫌われるということ
一方で、わたしはどちらかというとパードリック側だなってこともはっきりと認識してしまったというか。
だからね、めっちゃへこんだの。多分、あたい知らず知らずのうちに、コルムられてたなーって思った(動詞にするな)。
正直いうとわたしうわべだけの人間で、自分でもわかってるくらい退屈だし、いろんなことに無自覚だし、自分本意で底意地が悪い。それでいて他人からはよく見られたくて優しい振りしたり、最初はへらへらのらりくらりでなんとなく乗り切れるけど、結局ボロが出て関係は長く続かない。
大人になってから交友が広がらないのも昔からの友人が少ないのも結局は自分に原因があるんだろうなーってことを、この年になってようやく理解してきたような感じです。
でもさ、自分がそういう人間だってわかってても、ずっとそうやって生きてきたから今さらどう変わったらいいのかわからないんですよ。
それにね、「退屈な人間」だから何にも考えてないかっていうとそんなことはないわけで。色んなことを隠してへらへら繕ってる人もいるわけですよ。
バリー・コーガン演じるドミニクはその言動のせいで島民からバカにされてるけれど(今でいう発達障害のようにも見える)、内情実は父親からの暴力にさらされていて、その結果なのかどうなのか、一番不幸な最後を迎えてしまう。
多分そういうドミニクにとってパードリックは「友だち」だったんだろうと思う。唯一心を許せる人だったんだと思う。うわべだけでも、そういう関係が作れる人っていうのは、「良い人」には違いないと思うんだよね。
だからこそ、嫌われるのはつらい。
そう、つらいんですよ。それが自分の価値にも直結するから。
コルムは多分、パードリックのそういう性格をわかってるんだよね。だから彼を傷つける分、指を切り落とすことで自分のことも傷つける。それは自分の内面の傷の可視化でもあるんだけど、それと同じくらい相手の傷の可視化でもあるんだと思う。
で、それがパードリックにとってきついことだってことも同時にわかってるんだよね。
うわぁん!つらい!
お互いその手前で止めればいいのにって本人もわかってるし端から見てる側も思うんだけど、意地の張り合いというか引き際を見誤ってなのか、最終的にのっぴきならないところまで行ってしまう。
その結果として、お互いに大きなものを失う。残ったのは虚無だ。
神父(なんか嫌なやつ)が「神はロバの死なんて気にしない」と言ってたけど、ロバのことを気にしない神様なら、人間の生き死にだって気にかけないとわたしは思うんだ。
「仲違い」という比喩
アイルランド内戦を背景としていることもあって「かつての仲間同士がいがみ合う」みたいな話として見ることもできますが、ただ、この2人の「仲違い」を戦争の比喩とするのは果たして適切なのかという問題はある気はする。
作中ドミニクの父親でもある警官(クズ)が「以前は敵はイギリス人だったからわかりやすかった」と語るセリフがあったけれど、元々はイギリスからの独立を目指していたアイルランド民。でも英愛条約(独立戦争終結とアイルランド自由国の建国が取り決められた)によってアイルランドが事実上イギリスの統治下に置かれるとなったことで、独立強硬派(IRA)と穏健派(自由国)で対立してしまいました。
結果的に自由国側が勝利し、北アイルランドは取り残される形でアイルランドは独立します。IRAは90年代の映画でも悪役のテロ組織として度々登場してましたね(ブラピとハリソンフォードの『デビル』とか)。1998年にベルファスト合意がなされ、現在にいたります。
そんな経緯があっての「内戦」と「仲違い」を同列な「いさかい」としても良いものなのか?
国と国、思想と思想、宗教と宗教、そういった「違い」から来ると衝突や対立が、男の仲違いと本質的には同じだなんて言ったら、それじゃあまりに他人事みたい。でもこの映画は全体的にそんな感じがするんだよね。
中立やどっちもどっちを装ってどこまで傍観者でいられるか、みたいな。
もしかしたら、物事には「他人事」で済ますべきものもあるよってことなら、それはそう、としか言えないんですが。
てかね、同じ島に住んでて「絶交」なんてどだい無理な話でさ、じゃあもう引っ越すとかして物理的に距離を置けばいいじゃないか、と短絡的に思ってしまうんだけども。でもそんなこと多分あの2人は思いいたることもないよね。
あの島にいて、誰も幸せになれないとわかっているのは「考える女」であるパードリックの妹のシボーンだけ。川向こうに立つ老婆=バンシーに自分の将来を見た彼女は島から出る決心ができたけど、コルムもパードリックもそれができない。彼らは互いに重なりあう自分の「領域」から出ようとはしない。それが衝突の原因であっても。
最適解かどうかはさておき、それができていれば多分、パードリックとコルムみたいな「いさかい」は起こらないのかもしれない……(あらゆる「いさかい」がそうであるとは、わたしは思ってはいないけれど)。
ラストシーンを観ながら、わたしにはこの映画は「友情の終わり」ではなく、「争いの始まり」の話だと思った。ラストカットは島の俯瞰で終わるけど、それはきっと、「ここからこの島で何が起こるのか?」を暗示しているようで。
あの後きっと島では、どっちの側につくのか島民同士が分かれはじめ、噂話、嫌がらせと暴言の応酬、悪意が広がる。始めた側とは無関係なところで新たな火種が生まれ、また暴力が悲劇を生み出すだろう。
それを「戦争」の比喩ととらえるなら、確かにそうなのかもしれない。
ただ、映画の一番良いところは終わりがある、ということ。現実は、そうはいかないからね。
作品情報
- 監督 マーティン・マクドナー
- 脚本 マーティン・マクドナー
- 音楽 カーター・バーウェル
- 製作総指揮 ダニエル・バトセク、オリー・マッデン、ダーモット・マキヨン、ベン・ナイト[製作]
- 原題 THE BANSHEES OF INISHERIN
- 上映時間 114分
- 製作国 イギリス/アメリカ/アイルランド
- 製作年 2022年
- 出演 コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、ケリー・コンドン、バリー・コーガン