あらすじ
一年前に父親を亡くし塞ぎ気味の内気な女子高生ミリー。母親はアルコールに頼り、警察官の姉との仲もギクシャクしている。片想い中のクラスメート・ブッカーにも視線を投げるだけで精一杯。
そんなある日、ミリーの高校の同級生が惨殺され、都市伝説の殺人鬼ブッチャーが犯人なのではとの噂が立つ。その夜、学校に残っていたミリーの前にブッチャーが現れる。
ブッチャーに不思議な短剣で左肩を刺されたミリーは、次の日の朝に目覚めると何やら様子がおかしい……
ブッチャーはミリーに、ミリーはブッチャーに、体が入れ替わってしまったのだ!!
わたしたち、入れ替わってる~~!??
というわけで『ハッピー・デス・デイ』ランドン監督の『ザ・スイッチ』、観て参りました。
いやー楽しい。いやーー、楽しい!!
テンポがめちゃくちゃいいし、気軽に楽しめるスラッシャーホラーコメディって感じで、なんか久しぶりにこういうの映画館で観たな!って気分。好評なのも納得の面白さでしたね。
もうね、最初のリア充男子の殺され方からして最高すぎる!タイトルのフォントとかも、13金オマージュでニヤニヤしちゃうよね~。
ただね、わたしがこの映画大好きだなって思えたのは楽しいゴア描写とかヴィンス・ヴォーンの可愛さとかだけじゃなくて、裏にしっかりとしたテーマが見えたから。
もうね、ラストバトルはわたしの感涙スイッチがオンに入りっぱなしで号泣しちまったぜ……。
……いやもしかしたら、いや多分、全然泣くようなシーンじゃなかったかもしれないけど!?
あたいの涙腺スイッチがガバユルなだけかもしれないけど!?
ランドン監督の「分かってる」感とブラムハウス製作のバランス感覚が見事に合致した、スラッシャー「ジェンダー」ホラーでした!
以下、めんどうな自分語りを入れながら、ネタバレしつつあれやこれやを。
殺人ではなく殺「概念」
80、90年代のスラッシャー映画にオマージュを捧げているのがよく分かる序盤。仮面を被った殺人鬼に、景気よく若者が殺されていきます。テンションがぶち上がる、上々の滑り出し!
この手の映画の多くが、リア充爆発しろ精神に溢れていることはすでに多くの批評などで言われていることではありますけれど、本作も序盤の殺害シーンはそれに倣っているところがあります。
殺害に使われるのが、高級ワインやテニスラケットというのもポイント。金持ちリア充への並々ならぬ憎悪を感じます(笑)。
それから多くのスラッシャー映画は、幼なじみ、妹、お姉さん、学級委員、と攻略キャラが属性化しているエロゲーのように、マッチョ、ビッチ、オタク、処女(ファイナルガール)……と襲われる側のキャラが属性化しているのが常であります。
本作では、そのキャラの属性もちょっとやっばり、今風なんですよね。
主人公(ファイナルガール)が気弱ないじめられっ子ミリーで、その協力者となるのが積極的なゲイのジョシュと黒人の真面目女子ナイラ、っていう。
『ハッピーデスデイ』でもすぐ殺されるビッチ属性の女子が主人公で、キャラ属性の脱構築が行われてましたけど、これが現代で「ステレオタイプ」化している主役級のキャラ属性なのかもしれませんね。なるほどなぁ。
確かにガワは13金やハロウィンみたいな、往年の殺人鬼映画っぽいんだけれど、しっかりと軸足は現代に置かれている。このバランス感覚がさすがだなと思いましたね。
ジョシュが、ミリー(中身はブッチャー)を拘束しているのを母親に見つかって、切羽詰まって「僕はストレートだ」って言うシーンがあるんだけど、いわゆる「カミングアウト」をこんな風にギャクにできるのか!って驚いたし(『loveサイモン』でもこのネタやってたな)、こういうのってちゃんと意識して作ってないと差別的になりかねないからね。
絶妙だなぁと思ったよ。
それから秀逸だなと思ったのが、本作で殺されるキャラたちの描き方。
一見ブッチャー(外見はミリー)は、目についた人間をターゲットにしているようなんですけど、ちゃんと選択してるんですよね。
冷凍されるイケてるグループ女子はスクールカースト、真っ二つになる教師はパワハラとセクシズム、チェーンソーでアーされちゃう三人はミソジニー及びトキシックマスキュリニティあるいはホモソーシャル、ジョシュに無理やりキスをした後目潰しされる男子学生はホモフォビアでしょうか(クローゼットのホモフォビア、というのは映画でも良く描かれるタイプですね)。
そう、彼らはそれぞれ、世に蔓延る悪習や偏見といった「クソ概念」の象徴なんですよ。
ミリー(中身はブッチャー)が殺しているのは、属性化したキャラではなく、キャラ化した概念と言えるわけで。
だから、本来であれば殺される!怖い!となる殺害シーンもスカッと爽快感があるんですよね。
男の人になりたかった。
ただね、この映画、わたしが一番ぐっと来たのはミリー(中身はブッチャー)が、いつも自分を脅かしてくる男子に、ブッチャーの姿で反撃するシーンがあって、それを見て「あーこれ、わたしがずっとやりたかったやつだ」と思ったんですよ。
わたし旧姓がちょっと珍しくて、小学校の頃はそれを理由にクラスの男子にしょっちゅうからかわれたりしてたんですよね。
しかも、他の女子より少し背が高かったりもしたから、それで「男女(おとこおんな)だー」みたいに言われたりもして。名前と体っていう自分のアイデンティティに関わる部分をけなされ続けるというのは、正直、しんどいもんですよね。
その時わたしが思っていたのは、自分が強くなればきっと誰からも何も言われなくなるだろう、ということ。
わたしが弱いから、きっとそういうことを言ってくるんだ、わたしが強ければ、彼らもわたしに従うはずだ、と。
あの頃のわたしは、「男の人」になりたかった。大きくて強い男の人に。
だから、車の中でミリー(中身はブッチャー)が「姿が変わっても悪いことばかりじゃない」と語る気持ちがものすごくよくわかって。
誰からも蔑ろにされないっていうのは、当然のようにみえて、実はすごく難しいんですよ。
男子ももちろん、そういう不愉快な思いをするでしょうし、個人差も大きいと思います。
ただ、多くの女子が女子だからこそ共通して持っている「無力感」というのは確かに存在していて、それを克服したいと思っている人たちも多いんです。
この映画、男女(しかも中年と女子高生)を入れ替えて、ただ視覚的な面白さを楽しむだけじゃなくて「ジェンダー」の問題に深く切り込むように作られてるんですよね。
ちゃんとテーマに沿ったサブジャンルの使い方をしている点は、前作『ハッピーデスデイ』とも通じるところ。とても巧いと思います。
誰かと一緒なら強くなれる
そこから来てのラストのバトルですよ。
元通りに「女の子」に戻ったミリーの前に、再びブッチャーが現れます。
彼は言う。
「立場が入れ替わったからわかる。お前は弱い」
先ほど、この映画で殺されるのは「概念」だって話をしましたが、この時のブッチャーが象徴しているのは「女子は弱い」(女性軽視)という概念です。
いや、その他、ありとあらゆるジェンダーにまつわる「クソ概念」なんだと思います。
それをミリーたち女家族三人で撃退するわけです。もうね、なんかすごい胸が熱くなっちゃった。
一人だったら絶対に立ち向かえない。力は弱いし体格も差がありすぎる。
でもね、誰かがいてくれればわたしにも戦えるんだって、そんな勇気を貰えた気がする。
男の人になるとか、誰かになるとかじゃなくて、わたしはわたしのまま強くなりたい、って思いました。
わたしのこの、体のままで。
作品情報
- 監督 クリストファー・ランドン
- 脚本 マイケル・ケネディ、クリストファー・ランドン
- 製作総指揮 クーパー・サミュエルソン、ジャネット・ヴォルトゥルノ
- 音楽ベアー・マクレアリー
- 製作年 2020年
- 製作国・地域 アメリカ
- 原題 FREAKY
- 出演 ヴィンス・ヴォーン、キャスリン・ニュートン、ケイティ・フィナーラン、セレスト・オコナー、アラン・ラック