あらすじ
宇宙飛行士のロイ・マクブライド(ブラッド・ピット)は知的生命体を探索する「リマ計画」で消息を断った父(トミー・リー・ジョーンズ)が、海王星付近で生存していると知らされる。父の消息と、近頃頻発しているサージ(電磁パルス)の原因を探るため、ロイは宇宙へと旅立つが…
「SF」とは何か?
ブラピ主演、プランB製作のジェームズ・グレイ監督作。
監督の前作『ロストシティZ』は未見なのですが、あらすじを読んだ限り本作とかなり似ているような気がします。
現実味のある(想像の領域という意味で)SF的考証と、それでいて『メッセージ』や『コンタクト』にも通じるような人の心に訴えかける温かい着地が素晴らしく、わたしは大好きなタイプのSF映画でしたね。
よく引き合いに出されている『2001年宇宙の旅』や『惑星ソラリス』などとも違う、むしろ方向性は真逆の作品だと感じました。「人間ていいな、地球っていいな」的な、どこか懐かしいホッとするお話です。
教訓めいたところもあって、少し童話っぽい。
個人的に思い出したのは、SFでも映画でもないけど「ムーミンパパ海へいく」ですね…
- 作者: トーベ・ヤンソン,Tove Jansson,小野寺百合子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/12/03
- メディア: 単行本
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あと最近、SFガチ勢の間で、あるSF小説が「果たしてあれはSFなのか?」みたいな議論がされているようなんですが、はっきり言ってね「何を持ってSFとするか」なんてそんな問いかけは不毛だし、愚問だと思うんですよ。
本作を観て、改めて、そんな議論は些末な問題なんだと思わされましたね。
「SFとは何か?」…いや、そんなことはどうでもいいんだよ!!
それよりもっと大切なことがあるんだよ!!!
…そんな映画でした。
外宇宙から内宇宙へ
ブラピ演じる主人公ロイが地球から月へ、月から火星へ、火星から海王星へ…とアウタースペース(外宇宙)へ進めば進むほど、物語は人間の心というインナースペースへと向かっていくんですね。
モノローグ主体の内向的な物語は娯楽性が乏しく、もしかしたら人によっては退屈に感じるかもしれません。(映像は娯楽性に富んでいると思うんだけれど)
宇宙モノとしては既視感のある映像も多く、あまり「センスオブワンダー」が感じられないのも物足りないと思われる部分かもしれません。(月へのロケット内で枕とブランケットに料金が発生する→LCCやん!って笑いましたけど)
ただ、この作品でわたしがすごくいいな、と思ったのは「人はどこから来てどこへ行くのか」というSF作品の根幹をなす問いかけをしながらも、その反証を示すという二重にアクロバティックな答えを出しているところなんですよ。わたしはそこにめちゃくちゃ感動しましたね。
あとねーこの作品「働くお父さん映画」なんですよ。
※働くお父さん映画とは…仕事人間のお父さんがある経験を経て人間性を取り戻す映画。『ライアーライアー』『新感染』『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』などがある。
ノルマや目標にとらわれて何か大切なことを忘れてないか?
上司や会社の方針に実直に従い過ぎて、心が死んでないか?
毎日必死に働く世のお父さん方(というか大人の人みんな)にですね、是非観ていただきたい作品だなぁなんて思いました。
人はみんな孤独だ。
でも大丈夫、あなたは決して一人じゃないよ。
というわけで、以下ネタバレも含みつつ、わたしが好きだった点についてつらつら書いていきますね。
仕事一筋お父さんVS脱社畜息子
わたしは頭が悪いのでこの映画をSF論法では語れません。
なので感じたままを分かりやすく書いていくことにしますね。
この映画はね、簡単に言うと、仕事人間のパパ(トミー・リー・ジョーンズ)に息子(ブラピ)が「もうお家に帰ろうよ」と言いにいく話なんです。
で、その息子ブラピもね当初は筋金入りの仕事人間なんですね。仕事のためなら極力無駄を省く、不要なことはしない。人の生き死に対しても「冷静沈着、合理的」を地で行く、冷静というより冷酷な人間なんです。わたしはこの状態を「無意識社畜」と呼んでいます。
そんな無意識社畜状態の息子が、会社(宇宙軍)のブラックぶりに気づいて「あれ?おれもパパもただの会社の駒なんじゃね?」と思いはじめる。
そしてついに会社の意に反し、たった一人で職場(宇宙)に行って、お父さんを家に連れ帰ろうとするんですよ…
要するにね、SFという装置を使って、すっごくミニマムでパーソナルな話をやってるんですね。
…めっちゃ素敵やん??
わたしはそういう「SF」が多分好きなんですよね~。
結局お父さんは「職場で命を全うします…」ってなるのが悲しいんだけど、息子はそれでもやっぱり家が恋しくてかなりの無茶ぶり(海王星の環=小惑星の集まりを鉄の板程度の装備で突っ込んでいく、ロケットの発射に核爆発の推進力を使う)をしながら地球=家に帰ってくる。(あるいはもしかしたら、リマ号で体験したものは全て幻で、息子はただ自分を見つけに旅に出ただけかもしれません)
いいないいな、人間ていいな。おいしいご飯にほかほかお風呂~あったかい布団で眠るんだろな~
とブラピが思ったかは知りませんが(絶対思ってない)、こっちとしてはそういう、ほっこりとした気持ちでしたね。見終わったあと早く家に帰りたくなりました。
個人はみな、絶滅危惧種という存在
前にも書いたかもしれないけど、舟越桂さんのこのことばがわたしはとても好きでして。
この映画はまさに、この一言を知るための映画なんだと思うんですよ。
実はロイの父が心血を注いでいた「リマ計画」は失敗していて、「地球以外に生命はいない」という結論に達していたんですね。
でもロイの父は探査を諦めるべきではないとして地球への帰還を頑として認めなかった。けれど他の乗組員たちは地球から離れすぎて精神的にきてることもあって、みんな帰りたいと言うわけです。そこで衝突が起き、宇宙船は機能不全に陥っていたーというのがことの真相でした。
父はたった一人、孤独な戦いを続けていたのです。
一方のロイも、海王星に来るまでの道中に同行者が次々と亡くなり(彼のせいでもあったりするんだけど)、孤独に陥っていました。
もともと冷静で孤独を好む性格のロイでしたが、旅が進むにつれ次第に「孤独は嫌だ」と思うようになっていくんです。
人はみな孤独です。一人で生まれ、一人で死んでいく。それは紛れもない事実で、だからこそ、他者を求める。でも時に衝突し争いあう。誰かをけなしたり、見下したりする。
その関係性に絶望するときもあるけれど、どんなに抗っても結局人は一人では生きられない。
宇宙のどこを探しても「自分」という存在は自分以外にいない。それと同じように、他者の存在も唯一無二のもの。他者もまた「孤独」で、その集合体である地球もまた「孤独」。
だからこそ尊く美しいのです。
わたしが特に好きだったシーンは、地球に帰還したブラピが脱出ポッドから出てくるとき、見知らぬ兵士が手を差しのべるんですが、その時ブラピはちょっと微笑んでその手を掴むんです。
ちょっと前まで「おれに触るな」とか言ってた人がですよ?
きっとその手は温かかったはず。
「絶滅危惧種」であるからこその孤独。「絶滅危惧種」であるからこその慈しみ。
孤独と孤独が生み出す温もりを、彼は受け入れるのです。
「SF」のその先へ
無限に広がるまだ見ぬ世界、新たな生命、人類の進歩。宇宙探査には夢があります。
「人はどこから来てどこへ行くのか」ーその根元的な問いを発見する果てなき試みでもあります。
外へ外へと向かうこと、先へ先へと進むことが目的とされている宇宙探査を題材としながら「地球のほかに生命体はいない」とはっきりと明言するのが逆にすごく新鮮でしたね。
そしてそれがディストピア的な着地をするのではなく「地球」というユートピアを再発見する旅になるという。
そして、海王星(ネプチューン=ポセイドン)は、ジェームズ・グレイ監督が本作のモチーフにしたと語るホメロスの叙事詩「オデュッセイア」(オデッセイ)で、主人公オデュッセウスが怒りを買い、故郷に帰れなくなるきっかけとなる神様の名前がつけられています。故郷では死んだと言われているオデュッセウスを、その息子テレマコスは探索に出かけるのです。
けれど、本作のオデュッセウス(父)は帰還しません。テレマコス(息子)が故郷イタケー(地球)で再会するのは、誰かの父であり母でありその可能性を内包した人々と自分自身…彼自身がオデュッセウスとなっていたのです。
オデッセイ、それはわたしたち人類一人一人の、人生そのものなのかもしれません。
最後に、谷川俊太郎の有名な詩の一説を引用して終わります。
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
谷川俊太郎「二十億光年の孤独」
また「SF」の懐の深さを感じられる作品と出会うことができました。
作品情報
- 監督 ジェームズ・グレイ
- 脚本 ジェームズ・グレイ、イーサン・グロス
- 音楽 マックス・リヒター
- 製作総指揮 マーク・バタン、ロウレンソ・サンターナ、ソフィー・マス、ユー・ドン、ジェフリー・チャン、アンソニー・モサウィ、ポール・コンウェイ
- 製作年 2019年
- 製作国・地域 アメリカ
- 出演 ブラッド・ピット、トミー・リー・ジョーンズ、ルース・ネッガ、リヴ・タイラー、ドナルド・サザーランド