この文章は『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』のネタバレを含みます。が、感想ではないです。
批判的な意見なので、この映画が好きな人は読まない方がいいです。
ただのエセにわかゴジラ好きの戯れ言なので、ちゃんとしたゴジラファンの人は読まない方がいいです。
ダラダラとつまらない自分語りをつづっているだけなので、誰も読まなくていいです。
やっぱり、受け入れられない。
先日、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(以下KOM)の感想をアップしたんですけどね。
書き終わってからしばらくして、心の奥底に重たい鉛のようなものがずっしりと沈んでいることに気がつきました。そしてそれは、時間がたつほどに重くなっていき、今ではもう無視できないほどの大きさに広がっています。
ブログではなんとなく世間体を気にしてさらっと書いたんですが、本当のことを言うと全然納得できてないし、やっぱりどうしても受け入れることができないんです。
ゴジラに核兵器を使ったということが。
…今、泣きながらこれを書いています。
こんな状態になっていることに我ながら驚いています。自分でもなんでここまで悲しい気持ちになっているのかよくわかりません。
時間がたてばたつほどに、「どうしてあんなことをしたの、させたの?」「ほかにやりようがあったんじゃないの?」という気持ちがどんどんどんどん強くなっているのです。
「たかが映画じゃん」「怪獣映画に何求めてんだよ」「フィクションなんかに本気になってバカバカしい」「エンタメとして消費しとけばいいんだよ」
わかってる、わかってるんです、頭では。
でも、どうしても心が追い付いていかない。
わたしはTwitterをやっておるのですが、主に映画好きな方をフォローしているため、KOMを絶賛しているツイートがたくさんタイムラインに流れてきます。その中であの描写に異議を唱えている人はほんのわずかで(というかほとんどいない)、皆さんがすんなりと受け入れている(ように見える)ことにも少なからずうちひしがれています。
いろんな人のブログなども読みました。KOMがイマイチだという人も中にはおり、「あそこまてしなくてもよかったよね」という評価をしている人もいます。とはいえそれでも「まぁ、アメリカの映画だから核の扱いはあんなもんだよね」とどこか諦めに近い感じで認めている点は共通しています。わたしもそんな風にブログ書いたし。
でもわたしが感じているのはきっと、そういうことではないのです。
いいんです別に、核兵器を出してくるのは。もしこれが他の怪獣映画だったら、多分なんとも思わなかったでしょうし、KOMでも、もし「キングギドラを倒すために使う→結果的にゴジラが力を取り戻す」という流れだったとしたら、全然受け入れていたかもしれません。
わたしは「ゴジラに対して(救うために)核兵器を使った」ということが、どうしても受け入れられないのです。
わたしとゴジラ
何度かこのブログでも書いているんですけど、わたしが映画館で初めて映画を観て泣いたのが『ゴジラVSメカゴジラ』で、一番好きなゴジラ映画なんですね。まだ小学生の時でした。
その後中学生になり、『ゴジラVSデストロイア』が公開され、「ゴジラ死す」と話題になりました。わたしも映画が楽しみで、同級生に「ゴジラ観に行くんだ!」と話したんです。そうしたらその子は、
「え~?まだゴジラとか観てんの~?」
と言ったのでした。
ショックでした。
自分の好きなものを否定されたということではなくて、ゴジラがそういう存在だと言われたことが、とても悔しかったのです。
けれども実際観に行ってみれば、大人も子どもも関係なく、ゴジラはみんなを受け入れてくれました。わたしはバーニングゴジラのかっこよさににしびれ、その死にむせび泣き、「まだも何もねーよ!」と思ったのでした。
ゴジラが死んでしまったのはとても悲しかったけれど、「それでも、ゴジラはずっとそばにいてくれる」と、幸せな清々しい気持ちで映画館をあとにしたのです。
とはいえわたしもゴジラを特別に大好きだったというわけではないし、ずっとゴジラを好きだったわけではない(ミレニアムシリーズをちゃんと観たのは最近だし)し、思い出とリンクしちゃってるところもあるので、本当のゴジラファンの人からしてみたらあまっちょろいのかもしれません。
でもずっとゴジラはわたしの心の中のどこかにいました。
そしてゴジラは、核兵器、戦争、放射能、メルトダウン…子どものわたしにそれらの恐怖を教えてくる存在でした。
かっこよくて強くて怖い「わたしのモンスター」、それがゴジラでした。
KOMはゴジラの在り方を決定的に変えてしまった
ゴジラと核の問題は、切っても切れない関係です。その出自に関わるものだし、そしてある意味、被爆国である日本のアイデンティティを象徴している存在でもあるからです。
過去のゴジラ作品でも、何度も核とゴジラについては議論されてきました。間接的にゴジラに影響を与えることもありました。
けれど、どれも明確な線引きがあったように思います。それだけは絶対に譲れないという「ゴジラポリシー」のようなものが。エメゴジでもその線引きは守られていて、もちろんシンゴジラでもそうでした。
2014年に公開されたギャレゴジで「核実験はゴジラを倒すためだった」という改変に「おや?」と思いましたが、もちろん批判もあったけれど、話の根幹にまで関わってくる問題じゃなかったし「無知な人間がやらかしちゃった→結局ゴジラを強くしただけ」という因果応報感もあったので、まだギリギリとどまっていたのだと思います。
けれどKOMは、その「ゴジラポリシー」をやすやすと飛び越えてしまった。ゴジラに、あえて、どうなるのかわかっていて、核兵器を使う。あの描写は、ゴジラという存在そのものを、決定的に変えてしまったとわたしは思うのです。
ゲームや漫画ならまだ許容できます。でも映画でそれをやってしまった。もう、後戻りはできない。
映画は全米と日本で首位発信だそうで、大ヒットしています。絶賛の声が多く聞かれ、そしてこの描写をほとんどの人がすんなりと受け入れているという事実に、わたしは言い様のない虚無感をおぼえています。
うちの息子も特に疑問もなく観てましたし(多分あんまりわかってない)、きっとこれから先ゴジラを観る子どもや若い人たちは、きっと何も思わずにあの描写を受け入れていく。
モンスターバースは今後どんどん大きく展開していきます。つまりこのドハゴジが、今後のグローバルスタンダードとなる可能性もあるということです。
だとしたらそれはもう「わたしの」ゴジラじゃない。
あー、何言ってんだって感じですよね。
わたし今、ものすごくうざくてあり得ないほどメンドクサイ人間になってますよね?自覚あります。
もうなんなんだろうね。たかが映画じゃん。たかがゴジラじゃん。アホかよ。アホなんだよ。
さよなら、わたしのモンスター
いや、わたしのゴジラの認識が歪んでいるのかもしれないし(多分そう)、きっとわたしのような意見は少数派でしょう。
というかこんなのはっきり言ってどーでもいいっていうか、そんなの誰も問題にするような内容の映画じゃないんです。怪獣かっけー!ゴジラつえー!ラドンてめぇー!っていう。
そうやって楽しめばいいんです。それが正しい見方なんです。わたしだって最後の怪獣バトルはほんとすごいと思ったし、映画自体も面白いんです。それを皆が受け入れてるんだから、それでいいんですよ。
「たかが映画じゃん」「怪獣映画に何求めてんだよ」「フィクションなんかに本気になってバカバカしい」「エンタメとして消費しとけばいいんだよ」
ほんとそう。そうなんです。わかってるのに。
この、いまのわたしの悲しさの理由はきっとそこにあるんだと思います。誰もが受け入れて、褒め称えているゴジラを、わたしは受け入れることができないという寂しさ。
そしてきっと、多分おそらく、わたしが好きだったゴジラに会えることは、過去以外にはないという切なさ。
モンスターバース、楽しみだって思ってたけど、もしまた同じように「ゴジラが弱った!ハイ、ラブ注入!」ってやられたら…多分もう立ち直れないかもしれない。
それにきっと追い続けても、「わたしの」ゴジラはそこにはいない。…つらい。
じゃぁKOMなんてなかったことにすればいーじゃん?
…そういう気持ちにもなれないんです。「これは◯◯じゃない!」なんて突っぱねるような態度は大嫌いだし、そういうまねをゴジラにだけはしたくないんです。古参のゴジラファンの方々はきっとそうやって何度も葛藤しながら、新しいゴジラを受け入れてきたんでしょうし、だからこそ今のゴジラがあるんです。
わかってるんですよ。
でも、でも…
もうどうしていいかわからない。
涙が止まらない。
さようならゴジラ、わたしの愛したモンスター。
きみはもう、そこにはいない。
とにかく今のわたしは、そんな気持ちです。