あらすじ
ナチスのナンバー3、ラインハルト・ハイドリヒを暗殺する「類人猿(エンスラポイド)作戦」を実行した若き青年たち。「僕」は彼らへの敬意を捧げようと、資料を集めその奇想天外な歴史を本にしようとしている…。1942年、若者たちに起きた過酷で数奇な運命。「僕」は彼らに思いを馳せながら、過去と現在、虚構と現実を行き来するーー「ナチスとは何だったのか?ハイドリヒとは何者だったのか?そして、小説とは何なのか?」
こちら、読んだのはもう5年くらい前で、映画化されることは随分前から知ってたんだけど、全然情報が来なかったんですよね。
去年のはじめ「あ、そう言えばHHhHの映画化どうなったんだろ?」と思ってたら、キリアン・マーフィー主演のこちらの映画がレンタルされてまして。
「あれ?いつのまにか公開されてたんだ!つーかまーたクソみたいな邦題つけやがって…」と思って、借りて観はじめたんですが…どうもわたしの読んだ小説と話が全然違うんですよねぇ…。
おっかしいなぁ~、と調べてみたら、扱ってる出来事が同じなだけで、全くの別物だったことが判明!いやぁ〜うっかりうっかり。うっかり八兵衛。
で、正しい邦題がこちら。
映画『ナチス第三の男』 原作「HHhH、プラハ1942年」 » 映画「ナチス第三の男」公式サイトより引用
ちょ、ちょ、ちょーー!まーたダサいデザインとタイトル〜〜!なーんでタイトル変えた方が良さそうなのやつは変えないのに、変えなくていいやつは変えちゃうのかなぁ?
海外版ビジュアル(これはサントラです)はこんな感じ…うむ。
というわけで、映画が1月25日公開ということでね、原作を再読してみた感想です。
壮大な歴史小説でありながら、完全なる私小説
これは、実在の人物を主人公にして歴史をなぞるような大河ドラマ的ないわゆる「歴史小説」ではなくて、書き手である作者を中心に据えた、ドキュメンタリーやノンフィクションの手法で書かれた「小説」なんですよね。
要は「"小説を書く僕"の小説」というメタ的な構造になっているのです。読み手は作者である「僕」の導きによって、歴史をたどり、僕の目線で「歴史」を見るわけです。
しかし時々「僕」が前面に出すぎて、恋に落ちた、彼女と別れた、だの言いはじめるので、途中までは「これは一体なんの話なんだ?」とかなり混乱してきます。だって、「資料を集め」の段階から話がはじまるんですよ!笑笑 しかもその資料を「博物館のおばさんが内緒でくれた」とかね。
その後も歴史的事実と自分語りが交互に展開していきます。
例えば、ゲシュタポ本部に連行されたグレーゴル・シュトラッサー(注:ナチ党創設メンバーだったが、後にヒトラーと対立することとなる人物。本作では「ハイドリヒにユダヤ人の血縁がいるのではないか」という疑念をヒムラーに示唆したことで、ハイドリヒから敵視されることとなった)がハイドリヒの手引きで暗殺されるのですが、その件のすぐ後に、
ファブリスがやって来て、僕の本について話す。彼は学生時代からの古い友人で、僕と同じように歴史好き、よりにもよって僕の書いているものに興味があるという奇特な友人だ。
(40章 単行本56ページ)
なんてことが続いたりする!笑笑
そんな「隙あらば自分語り」状態が、「ハイドリヒについての話」あるいは「エンスラポイド作戦の顛末」と同列に進行していくことにより、読んでいて何度も現実へのより戻しが起こるんですよね。
けれども終盤になるとその構造が見事に作用して、確かに手法としては「ノンフィクション」なのですが、最後まで読むとそうではないとわかるんですよね。あぁ、これは確かに「小説」だ、と思わせる。
エンスラポイド作戦についてご存知の方、『暁の7人』『ハイドリヒを撃て!』などの映画をご覧になった方はお分かりだと思いますが、ハイドリヒ暗殺事件は「その後」の出来事こそがドラマチックであり、あの事件を伝説たらしめている一因なのですよね。フリッツ・ラングの『死刑執行人もまた死す』も直接的にエンスラポイド作戦を描いているわけではないですが(そもそも完全なる創作だし)、ドラマチックに暗殺事件の「その後」を描いていて興味深い…
この「小説」(あえてカッコ書きにしますが)の場合もしかりで、直接ではないにせよハイドリヒを死に至らしめた実行犯たち(クビシュ、ガブチーク、ヴァルチーク)が「地下納骨堂(カタコンベ)」でドイツ兵と繰り広げる攻防戦のクライマックスでは涙を禁じ得ません。
なぜなら、読んでいる「わたし」も、気づけば「僕」と同化しているから。そんな「僕」が
クビシュは死んだ。そう書かなければならないことが悔しい。彼のことをもっとよく知りたかった。助けてやりたかった。(略)何週間も辛い思いをしてこの場面を書いてきたのに、その結果はどうだ?
(250章 単行本364ページ)
などと言うのだ!わたしは「僕」と同じように悲しみ、悔しがり、涙を流す。…でも、これは「歴史」だ。わたしたちの手では変えることができない。
そして迫る、最期の時。
その時、わたしたちの「今」と彼らの「今」が見事に交錯します。この小説ならではの切り替えが本当に鮮やかで斬新で、素直に「すごい小説を読んだ!」という気持ちになりました。
マジで面白いので、映画を観終わってからからでもよいので、是非とも読んでいただきたいです。名前覚えるの大変だけど。
映画化…なの?
というわけで、映画楽しみ~!と、思っていたのです、が…。
わたしは普段、観たいと思っている映画の情報はなるべく入れたくないので、基本予告編とか公式ホームページとかもほとんど見ないんですよね。でも今回はたまたま、なんとな~くホームページを見てしまったんですよねぇ。
そしたら…アレ?これ、本当にHHhHの映画化…?「story」のところ、ハイドリヒのことしか書いてないんだけど…?映画『ナチス第三の男』 原作「HHhH、プラハ1942年」 » STORY
わたし、てっきり映画だから主人公の「僕」はエンスラポイド作戦の映画を撮ろうとしている映画監督かなんかなんだと思い込んでたよ!!
え?違うの?「僕」は出てこないの??
…とりあえず、観ずに批判するのは好ましくないので、映画は観ますよ。
(いやいや、「僕」の話がないならこの小説を映画にする意味ないじゃんよ…)