あらすじ
画廊オーナーのスーザン(エイミー・アダムス)の元に、元夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)の書き上げた小説の原稿が届けられる。その内容は「妻と娘を理不尽な暴力で失った夫の物語」であった。私生活に大きな不満を抱えるスーザンは、エドワードの書いた小説に魅了される中で彼との過去を振り返っていくが…。
昨年11月に公開されたトム・フォード監督作。Amazonプライムに入っていたので観ました。あまり情報を入れてなかったので、いきなり圧の強いオープニングが始まり「しまった!難解アート系だったか⁉︎」と思わず一旦停止してしまいました笑笑
近年のオープニングの中ではかなりの度肝ぬかれレベル…クセがすごい…(呆然)
けれど観終わってみれば、決して難解な内容などではなくて、「元夫の小説を読む人妻の話」といういたってシンプルなもの。映画内小説と人妻の現在、そして二人の過去を行ったり来たりしながら、男女の思惑だとか恋愛の機微だとか思いのすれ違いだとかを織り交ぜた、大人のための上質なラブサスペンスといった印象でした。
で、「ふぁ〜なんか大人って感じだな〜」というふわっとした感想を持って他の人の感想を読みに行ったら、ことごとく自分の思っていたことと違っててびっくりして、「アレェ?なんかわたし、やっぱり映画の見方ズレてんのかな?」と不安になりましてね…苦笑 とりあえず言葉にしておこうと思い、これを書いています。なので今から書いて行くことは、ぼんくら主婦の戯言だと思って聞き流して下さいよ。まぁこんなこと考えてる(とっちらかった)人もいるんだね、くらいのつもりで。
いやー、映画って、ほんと面白いですね。
以下ネタバレ。
母親という呪い
わたしがまずこの映画で心底ゲンナリしたのは映画内小説のザ・テキサスな暴力ではなく、スーザンと彼女の母親とのやり取りです。
「娘は母親と同じ生き方をする」という母のセリフは、真理であり呪いです。そして本作では、この母親からの呪いが大きな意味を持っていると思います。ラストシーンのスーザンの表情が示していたのは、自分が永遠にこの呪いから逃れることは出来ないと悟ってしまった悲しみだったのではないでしょうか。
スーザンは「母のようにはならない」と頑なに母親を否定し拒み続けてきたのに、結局、現在は母親と同じ華美な服を身に纏い、「ブルジョワ的生活」を謳歌する女となってしまっています。なぜ、娘は母を否定するのか。そしてなぜ、結局は母と同じ道を辿ってしまうのか…もちろんそれは、娘と母親だけに言えることではなく、息子と父親、兄弟、姉妹、家族全般に言えることです。家族の本質は自分の本質。根本は変えられない…。
『RAW』の感想でも書きましたが、わたしも今の自分が結果的に自分の母親と同じ道を歩んでいると思っているので、この呪いに関しては永遠の命題だなと思っています。唯一の救いは、わたしには娘がないことです。
復讐でも愛でもなく
さて本題。
本作のキャッチコピーは「それは愛なのか、復讐なのか。」です。
確かに、元恋人に何かを送るということは未練たらたらか酷い仕打ちを根に持っているかどちらかだと考えるのが普通かもしれません。ましてや「妻と娘が殺される話」の小説なんか届いたらいい気はしないし、そもそもスーザンは、エドワードを捨て、二人の間の子供を堕ろし、新しい夫に乗り換えた過去を「酷いこと」と自覚しています。なのでエドワードからの小説を自分に向けられた刃だと誤解したとしても不思議ではありません。
けれど、彼女の行為は「復讐」を受けなければならないような「罪」なのでしょうか?
スーザンのその時の心理状態をお悩みコーナー風に考えてみます。
今日はNYの主婦、スーザンさんとお電話が繋がっております!スーザン、こんにちは〜!
あ、こんにちは。よろしくお願いします。
スーザンさん、本日のお悩みは?
えぇ、…あのー、わたしの夫エドワードは、作家を目指しているんです。ですが…なかなか芽が出なくて。
ほほう、なるほど。
才能は、きっとあると思うんです。わたしも彼を信じています。でも…
でも?
正直、生活がきつくて…
ははぁん…つまり、愛はあるけど、金はない、と。
えぇ…彼が頑張ってくれているのはわかってるんです。でも…もうそろそろ、現実を見て欲しいんです。先日も教師に戻るよう説得したのですが、断られて…
夢を理由に職に就かないわけですね、はいはい。わかりました奥さん、あなたね、離婚した方がいいですよ。
えっ!
あのね、そういう男に「現実」とか言ってもだめですよ。…ところで、あなたお子さんは?
いません、今のところは…というか…うぅっ…うっ…(泣)
どうしました?泣いてます?大丈夫ですか?
わたし…その、将来が、不安で…(泣)
わかります、わかりますよぉ〜。
…いや別にふざけてないっす(・ω・)
スーザンは堕胎した後「絶対に後悔する。すでに後悔してる。エドワードの子だったのに」と言っています。もしエドワードが作家として成功していれば、あるいはエドワードが職に就いてくれて金銭的不安がなければ、スーザンは子どもを産んでいたと思います。中絶を肯定はしませんが、彼女の場合は致し方ないようにも思えます。そして、どん底の状態を支えてくれた今の夫を選んだことも、ごく自然なことではないでしょうか。
そんなスーザンに「罪」がないことを、実は当のエドワードの方がよくわかっていたはずです。
今度はエドワードの気持ちになって考えてみます。
こんにちは!今日の相談者はNY在住の作家志望、エドワードさんです。エドワードさん、お悩みは?
見てしまったんです。
ん?何をですか?
妻が、他の男といる所を。
あらま、浮気現場?修羅場じゃないですか!
いや…というか、彼女はぼくの子どもを堕ろしたんです。後悔していると言って、隣の男の腕の中で泣いていたんです。
なんと!それは許せませんね!
…はい。本来なら、あの場にはぼくがいるべきでした。彼女をあそこまで追い込む前に、ぼくが彼女と向き合うべきだった。彼女は以前ぼくに言いました。「幸せでない」と。彼女は辛い思いをしていたはずなのに、どうしてぼくは彼女を見捨ててしまったんだろうか…ぼくは、自分が許せません。
えっ⁉︎
エドワードは親友がゲイだったと知らされて「僕は彼を傷つけていないかな?」とまず相手のことを心配するような心の優しい人です。
演じているギレンホールは今作でナイトクロールもしてないし晴れた日に君を想ってもいませんので、セリフの通りに受け取れば間違いなくいい人なんです。そんな人が、恋人であり、妻であった女性に復讐したいなどという感情を抱くのでしょうか?まずは彼女の心の傷に想いを馳せるのではないかと思うのです。
それから、エドワードはスーザンに未練はなかったと思います。なぜなら「原稿を送る」という行為そのものがスーザンへの愛情の無さを物語っています。そう「本」じゃないんですよ。未練があってカッコつけたいなら本になった状態で贈りません?ピカピカのやつ。
おそらくスーザンに小説を送ったのは、彼にとって彼女が、かつて自分の夢を応援してくれた同志だったからではないでしょうか。つまり「僕が実現させた夢を読んでくれ!」と。
そしてもう一つ意味があるとしたら、「君は夢を叶えないのか?」という問いかけです。二人が結婚している時、エドワードはスーザンにしきりに創作を促していました。その度に彼女は「私は現実主義者で皮肉屋だから芸術家には向いていない」と拒みます。でも、エドワードはそうは思ってなかったし、彼女に創作して欲しがっていた。そして多分、今もそう思っている。…けれども、彼女は夜行性の獣(ノクターナルアニマル)。夜眠らない。つまり、そもそも「夢」を見ることさえできないのです。
小説に書かれていたこと
スーザンに罪はなかったとしても、エドワードも彼女を罰したいなどと思っていなかったとしても、重要なのはそこではなく、問題は、彼女がそう信じ込んでいたことにあります。これは予想ですが、きっとエドワードは別れる際、スーザンを責めたり、罵ったりはしなかったのではないかと思うのです。
だから、おそらく彼女はずっと、エドワードからの「復讐」の機会を待ち望んでいたのではないでしょうか。8年前に「REVENGE」と書かれたアートを無意識に購入していたことからも、そしてエドワードから待ちぼうけを食らってどこかホッとしているように見えることからも、その心情をうかがい知ることができます。彼女は過去への罪悪感を抱えたまま、母親の呪いを受け入れて、死んだように生きてきたのです。
「罪悪感」。それはエドワードの小説の主人公トニーも抱えているものです。妻と娘をなすすべなく殺されてしまった罪悪感、助けられなかった罪悪感、生き残ってしまった罪悪感…。後悔にとらわれて生きる彼の姿とスーザンの姿はどこか重なります。小説の中のトニーとスーザンの行動が度々リンクしていたことからも、トニーはスーザンの投影だったと考えることができます。
そして同時に、彼はエドワード自身でもある。捜査に尽力してくれているアンディーズ(マイケル・シャノン)が余命幾ばくもないと知ると、犯人逮捕のことよりもまずは目の前にいる彼の心配を真っ先にしていたことからも、エドワードの性格を如実に受け継いでいます。
そのアンディーズは、自らを鼓舞するもう一人のエドワードでもあり、そしてもちろん、共に目的(=夢)を達成しようと歩んでくれたかつてのスーザンです。彼が死にかけているのは、もうエドワードにとってその存在が必要のないものとなっているからだと思います。
そして妻子殺しの主犯格であるレイ。人殺しは楽しいなどと宣う邪悪な彼は、エドワードとスーザンにとっての「罪悪感」の元凶、つまり裏を返せば、彼ら自身でもある。
小説の中で最後、トニーはレイを撃ち殺し、自らも誤発に倒れ命を落とします。つまりこの映画内小説は、「自分自身が自分自身を殺す」物語だったのです。
夢占いなどでよく、「自分が死ぬ夢は新しい出発の暗示」などとよく言われますが、この終わり方はおそらく、現実のエドワードが自分自身の過去を葬り次のステップへ進んだことを意味しているのではないでしょうか。トニーの最期の顔が穏やかで微笑んでいたのはきっとその為です。
そして、この小説を捧げたスーザンにも、そうして欲しいというメッセージを込めたのではないかと思います。僕たちの罪悪感は僕が殺したから、もう過去のことは忘れてくれ、と。
エドワードはこの小説をもって、スーザンを罪の意識から解放しようとしたのではないでしょうか?この小説は、実はスーザンにとって、赦しと救済の物語だったと思うのです。
思惑の不一致
けれどもエドワードのそのメッセージが、正しくスーザンへと伝わったかどうかというと、残念ながらそうではなかったようです。
小説を書き上げたことで、過去を葬ったエドワードとは逆に、スーザンは小説を読んだことによって、エドワードとの過去に囚われて行ってしまいました。
だからラストに二人が出会うことができなかったのは、当然といえば当然なのです。
そもそもこの映画はずっと男女の、というか人と人の「思惑の不一致」を描いていた作品だったように思います。盛況な展覧会とそれを虚無の目で見つめるスーザン、現在の夫との溝を埋めようとするスーザンと不倫に走る夫、会議での噛み合わない会話、アンディーズから復讐の機会を与えられても引き金を引けないトニー…。自分の思う通りに相手が動いてはくれないもどかしさ。それは、愛することも同じ。自分が相手を愛するように、相手も自分を愛してくれているとは限らない。
一歩先に行ってしまったエドワードと、どこにも行けないスーザン。二人が再び交わることは永遠にないでしょう。愛は諦めたら、二度と戻ってはこないのだから。
作品情報
- 監督 トム・フォード
- 原作 オースティン・ライト『ミステリ原稿』
- 脚本 トム・フォード
- 音楽 アベル・コジェニオウスキ
- 製作年 2016年
- 製作国・地域 アメリカ
- 原題 NOCTURNAL ANIMALS
- 出演 エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホール、マイケル・シャノン