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「シン・ゴジラ」を考える その③ーーで、結局「シン・ゴジラ」って何だったの?

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ゴジラ記事三回目。

いいかげんにせーよ、と思わずに読んでもらえたらありがたいです。

 

過去の記事はこちら。 

minmin70.hatenablog.com

minmin70.hatenablog.com

 

 

公開から一週間。

多くの賞賛と少なくはない大酷評が吹き荒れる「シン・ゴジラ」。もともと作られた当初から批判されることは想像できたと思いますけどね、ここまで賛否の開きがあるとは少し驚きました。けれども映画サイトや観客動員数を見れば、概ね好評といった印象を受けます。

 

filmarksは4.3の高評価。

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yahoo映画も4.17。満点評価が半数以上。中間の3は1より少ない。

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映画.comは4.0、初日はもう少し高かったような…。

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わたしは公開初日に観に行き、以下に感想を書きました。

 

minmin70.hatenablog.com

 

観賞後は仕事中も家事をしているときも、気が付けばシンゴジのことを考えていて、パンフレットを読み返したりネットで感想を検索したり他の人のブログにコメント書いたり(普段はそんなことほとんどしないのですが)…。こんな風に誰かの意見を聞きたい、語りたい、と思った映画は久しぶりでした。

この一週間の間に、多くの方の感想や人気ブロガーさんたちの批評も出そろい、読めば読むほど本当にいろんな意見があって、改めてこの映画は人の経験や思考によって見方の変わる映画なんだなぁ、と感じましたね。

 

そして意外だったのは、「ゴジラなんて今まで見たことないよ」という非ゴジラファンの人たちの多くに受け入れられていることです。わたしはもともと子どもの頃からゴジラに親しんできた世代なので、若い人たちが「ゴジラって面白いね」と思ってもらえるのはとても嬉しいことなのです。

わたしはこの映画をかなり好意的に受け止めた大勢の人間のうちの一人ですが、酷評する人たちの意見もよくわかります。特に往年のゴジラファンの声…「あんなのゴジラじゃない」「エンドロールで歴代テーマを流せば喜ぶだろうと思っているのならファンを馬鹿にしている」「あの熱線は絶対に許せない」…うんわかる、わかるんですよ!確かに、その通りなんです(笑)。

昔からのファンが根強い作品の続編で、古参のファンを納得させるのは本当に難しいと思うんです。なんていうか、この現象はSWを思い起こさせますね…。


『スター・ウォーズ』スピンオフ!『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』予告編

こちらはどうなることやら…。

 

それでもね、今この時代に「日本のゴジラ」をよみがえらせようとした心意気は大いに評価したいし、多くの人の期待と不安を超えたものを出してきたのは間違いないと思うんです。だから賛否あるんだろうけどね。

そんなわけで以下、わたしが読んだ感想の中で気になった意見(主に批判)をまとめてみました。それを踏まえたわたしの意見も書いています。

そして、わたしなりに「で、シン・ゴジラってなんだったのよ?」という考察につなげていきたいと思います。

 

 

以下、「シン・ゴジラ」のネタバレを含んでいますので、未観賞の方はご注意ください!!

 

 

 

 

 

 

 

 

①ほとんどエヴァンゲリオンである。

映画サイトでもTwitterなどでも特に多く散見された意見。これに関しては否定ではなく、「だからいい!」って感じている人も多く、必ずしもマイナス点ではないようです。

ただ中には「エヴァと同じことやるくらいなら早く新作を作って欲しい」というエヴァンゲリオンファンの方の声もありました。なるほどね…。

わたしはエヴァンゲリオンは「一応見たことある」程度なので(会議室シーンの音楽がエヴァのBGMだとも、「ヤシマ作戦」て名前も知らなかった…)、何とも言えないのですが「エヴァファンしか楽しめない」「エヴァっぽい演出ばかり」という意見には本当にそうかなぁ?と思いました。少なくともエヴァンゲリオンに全く詳しくない(ついでに言うと大して好きでもない)わたしでも面白かったですし。

演出に関してもゴジラ初登場のチラリズムはホラー的だし、全体のトーンとしてはドキュメンタリータッチでしたよね。わたしはNHKの再現ドラマみたいだなぁ、と思って観てました。

「キャラクターがアニメ的」という意見は理解できます。デフォルメや記号的という意味ならば、その通りでしょう。市川実日子や石原さとみ、余貴美子などの女性キャラに関してはアニメというかステレオタイプ的と言えます。おそらく彼女たちは、リケジョ、アメリカン、女政治家という「役割」をあてがわれているだけのキャラクターなので。そこにリアリティは不要ということです。

 

②出演者が多すぎる。

確かに多いし、最後まで「お前誰やねん」みたいな人もいた(笑)。登場するとテロップが出るけど、いちいち覚えてられない。て言うかね、もともと覚えさせようって気はないんですよ。覚える必要ないから。

会議中に「以下略」とか出てきますけど、結局あれと同じ。登場人物にほとんど意味はないんです。誰だっていいんです。何話してるかわかんなくたっていいんです。全部「以下略」なんだから。でも、あえて略してないだけ。略さないことであえて意味をなくしているんです。

登場人物のほとんどが政治家や役人、自衛官などの公的な人間です。しかも彼らの「仕事」の場面だけで、家族や恋人はいるのか、どんな生活をしているのかなど私的な部分に焦点が当たることはほとんどない。彼らの「個」は切り捨てられ、あくまで役職と肩書によってのみ判別されている。これがハリウッド映画だったら長谷川博己には婚約者がいるとか、大杉漣には孫が生まれたばかりとかにしますよ。でもあえてそうしなかった。だって、日本映画だから(笑)。

わたしたちには名前がある。でもそれは「わたし」を表す時にだけ必要なのであって、その名前自体に意味はない。こう書くと全体主義的でとても気持ちが悪いのだけれど、でもこの映画は「日本」というチームが同じユニフォームを着てゴジラと戦う映画なんです。日本代表がサッカーの試合してて勝ち負けを人に尋ねる時に「長友何点入れた?」って聞く人いないでしょ。まず「日本勝った?」でしょ。

…ただ、この精神性は、主体性を重んじる欧米の方々は受け入れてくれるのだろうか。一応海外でも上映するつもりなんだよね?大丈夫かな(笑)。

 

③会議シーンが長すぎ&多すぎ。

この意見に異論はありませんが、でも、これも②と同じ理由で考えればしっくりくると思います。専門用語が飛び交うセリフの応酬に意味はないです。いや、やっていることには意味はありますけど、多用することで観ている側はもう「うん、なんかやってるな」程度にしか感じられなくなる。でも、それでいいんです。意味を無くすことに意味があるんだから。

 

④一般人の描写が少ない。

それから多かったのが、この意見。

「被害を受けているのは市井の人々なのに、どうしてそれを描かないの?」と思った方が多かったようです。

1954年版ゴジラでは焼かれる銀座で震える母子とか、「みなさんさようなら」レポーターとか、被爆したたくさんの子どもたちとか、多くの人の顔が見えましたよね。でも、今作はあえてそういった部分を排除している。一応、避難する人々が乗ったバスの長い列や、ラストに体育館らしき場所で避難生活を送る人々が映りますが、個人というよりはやはり全体的です。

なぜか?

わたしが思うに「観客」がその一般人の目線を担っているからだと思うんですよ。そして恐らく、観客の共感と想像力によって初めて完成されるように、この映画は出来ている。言うまでもなく、3.11の追体験をさせようとしているんですよね。

あの時、わたしたちはニュースで津波や原発事故の映像を見ながら不安と絶望を感じ、ただただ祈るしかないという無力感に苛まれました。そして、多くの犠牲者が出て、たくさんの人が被災した(そして今でも辛い思いをしている人がいる)ということを、わたしたちは知っている。

その経験から、瓦礫を見ればその下に埋もれた人々の生活を、放射能と聞けばその長引く避難生活を、そしてそれに苦しめられる人々の姿を、想像できるだけの材料があるわけです。

だから描かなかった。必要なかったから。

 

あと、もしかしたら未だに苦しんでいる人たちやトラウマを抱えている人たちに配慮して、あえて直接描かなかったとも考えられます。

 

 

⑤人の死が描かれていない。

④を踏まえると、この意見がいかに的外れなのかわかってもらえると思うのですが、いちいちゴジラに踏み潰される人とか、熱線で焼かれる人とかを映さないと「死」を認識できないなんて…3.11をニュースで見た時のあの気持ちを、みんな忘れてしまったの?津波に飲まれる街の空撮や原発が爆発した映像を見た時の、あの言い知れぬ恐怖と絶望を…。

もちろん、あえて人の死を残酷に描くことで成り立つ映画も存在します。でも、この映画はそういう類のものではない。

中盤の東京破壊のシーンに、逃げ惑う人や泣き叫ぶ子どもの映像なんて、本当に必要だったと思いますか?それにもし入っていたら明らかにこの映画のトーンには合わなかったでしょう。

 

 

で、結局シン・ゴジラってなんなのよ?

シン・ゴジラは津波で、福島第一原発で、3.11です。これは登場シーンや倒し方をみれば明らかで、誰もがそう思って観ていたと思います。

誕生の遠因を「水爆」ではなく「放射性廃棄物」としたのも良い改変だとわたしは思いました。核の脅威を感じるとしたら、冷戦も終わった今では「核兵器」よりも「原発」の方がより身近ですからね。

あの震災から5年。あれほどの恐怖と絶望を感じたはずであるのに、東京に住むわたしたちは、それ以前とほぼ変わらない日々を送っています。原発は再稼働されるし、東京で五輪までやろうとする始末。

けれど、未だに震災復興も原発事故処理も終わってはいないのです。それを思い出させようとして作られたのだとしたら、目論見は成功したと言えるでしょう。

つまり、シン・ゴジラは地方の怒りです。

ゴジラは常に東京を破壊します。東京は富と消費の街だからです。東京は延々と富とエネルギーを消費し続け、そのツケを他の地域に押し付け続けている。地方の過疎化が進むのも、格差が広がるのも、東京があるからです。本当は東京なんて、消えてなくなればいいんです(庵野秀明もおそらく東京が嫌いなんじゃないかな?)。

それが無理なら米軍基地も原発も、東京に置くべきなんですよ。えぇ、えぇ、わたしは馬鹿なことを言っています(笑)。

でも、いつかしっぺ返しをくらう時が必ず来る。わたしたちは自分で自分の首を絞めていることに気がつかない。その時が来てはじめて、やっとその罪の重さを知ることになる。ゴジラは、そのことを東京に住むわたしたちに知らしめるために、この街を破壊するのです。

「いい加減にしないと、そのうち大変なことになるよ」と…。

 

それから、「シン・ゴジラ」は挑戦です。既存の日本映画を打ち破り、新しい日本映画を作ろうとした、その記念碑的な作品なのではないかと(だからシン・ゴジラはこれまでのゴジラのように海には帰らず、固まってモニュメントになる)。

「スクラップ&ビルドでよみがえる」というセリフがあったように、「もう一度、日本映画を建て直そう」という、作り手側の意思表示だったとも思えるのです。岡本喜八が「好きにしろ」って言ってる(って庵野秀明は解釈した)のも象徴的でしたしね(…東宝サイドからも「好きにやっていいよ」って言ってもらえたのかしらん)。

ラストカットで映された禍々しいゴジラの尻尾が表していたのは、作り手たちの汗と涙、苦悩と葛藤だった…というのは考えすぎですかねー。

 

もちろん全てにおいて完璧だったとは言えないし、いびつな部分も認められる映画です(尻尾からの熱線はやり過ぎだし、石原さとみの役はさすがにちょっとかわいそう)。

でも、今の日本で作られたということを考えると、とても重要な位置付けにある映画だと思うのです。何年か後にどのように評価されているか(もしくはすっかり忘れられているかも…)、長い目で見守って行きたいところではあります。

 

 

 

今作とよく比較されていた映画。観ている時は全然意識しなかった!というわたしは所詮レベルの低い映画好きです…。 

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